中国での観客動員数が1800万人を超えた映画『THE FIRST SLAM DUNK』。なぜ中国で『スラムダンク』にこれほどまで人気が集まるのか? 1990年に中国で生まれ、日本で育った、中国現代カルチャー研究者の楊氏が考察する。
北京大学での封切り上映に観客4000人
映画『THE FIRST SLAM DUNK』は4月15日に中国の最高学府である北京大学で封切られた。場所は映画館またはホールなどではなく、体育館である。
27メートルもの幅の巨大スクリーンのまえにバスケットボールのコートが設えられ、その上に湘北高校のバスケットボール部5人の巨大ユニフォームが掲げられていた。
4000人もの観客がそこで映画を鑑賞し、映画が終わったあとには、テレビアニメ版のエンディングテーマ『世界が終るまでは…』を大合唱した。それはもはや映画の鑑賞ではなく、スポーツ観戦やあるいはコンサートに近い何かだった。実際、そういう感想を抱いた人が多いようだ。また、『スラムダンク』ファンの有名人――映画監督、俳優、タレントなど――も多く駆けつけた。
4月20日に全国上映されたが、4月15日の時点のチケットの予約人数は99万人で、興行収入は4000万元を超えていた。そして、現在(5月中旬)では観客数は1800万人、興行収入は6.53億元(約128億円)を超えている。
中国における最大のレビューサイトである「豆瓣 douban」では、この映画に対する評価数は26万を超えており、コメント数も12万件以上、さらに長いレビューは2000件を超えている(5月28日時点)。グッズやフィギュアの売れ行きも絶好調である。
映画館で見られる景色もまた、話題になっている。例えば、映画の主人公たちが所属する湘北高校バスケットボール部のユニフォームを着用して映画を鑑賞する人が多く見られた。まるでチームメイトの活躍を応援しているようであり、北京大学での封切りの時にバスケットボールのコートを設えたのと同じ心理の延長線上にあるものだろう。
また、それとは別に、映画が始まるとスクリーンをスマートフォンなどで撮影する人、さらに長めの動画を撮る人が大量にいたということが数多く報告されている。「やはり中国人のマナーが……」と反射的に考えはじめた人は少し待ってほしい。このような現象はほかの映画の上映ではほとんど見られず、中国でも法律違反として強く咎められる。過去に個別にそういう人がいても、集団的な行動としてはかなり珍しいものである。つまり、『スラムダンク』という作品に対する強い思い入れが、法律を破ってまで彼らにそうさせたのだ。
なぜ、『スラムダンク』という日本のアニメは中国でここまでの社会現象を引き起こしているのだろうか。何かの作品がここまでの反響を引き起こすのは、そこに単に「日本文化がブーム」というふうに単純に捉えることができないほど、あるいはそうするのがもったいないほど、複雑な背景と歴史があるからだ。
中国人はなぜ『スラムダンク』に熱狂するのか? その謎を解く一つの鍵は“世代”にある。
動員された1700万を超える人々の6割は、30歳以上であるというデータがある。間違いなく、ここには中国の一つの世代の特徴、ないしここ二十数年間の中国そのものを理解するための手がかりが隠されている。1990年に中国で生まれ、13歳まで吉林省で育ち、それから日本に移住した筆者が考える「中国における『スラムダンク』の影響」をお伝えしたい。
30~40代の「青春の教科書」
中国で『スラムダンク』を知らない人はいない。
私は普段「みんなその作品を知っている」というようなことを極力言わないようにしているが、『スラムダンク』に関しては断言できる。少なくとも、現在の中国の30~40代の男性の中で『スラムダンク』を知らない人はいないと自信をもって断言できる。
なぜ30~40代なのか。この問題は中国におけるこの20~30年間の大激変に関わっている。
2000年代初頭から、彼らは中国で1980年以降に生まれた世代として「80後(バーリンホウ)」と広く呼ばれるようになった。この「80後」は上の世代とのあいだに、あまりに大きなジェネレーション・ギャップを抱えた世代だ。
1978年に改革開放政策が提起され、それまではほぼ鎖国状態にあった社会主義の中国はいわゆる市場化経済への移行をはじめ、国の門戸を開きはじめた。
1992年までの模索期を経て、それ以降中国の経済成長が一気に加速していき、社会もそれに伴って大きく変化していった。つまり、「80後」はそのような激変の時期を生きてきた世代であり、上の世代が全く知らなかった世界や価値観に触れながら成長してきた世代である。
改革開放前の中国は、文化大革命という大きな動乱期を経験していた。その時代は文学や演劇などの芸術は、革命思想を表現するごく一部のものに制限されていた。そのため、文化大革命後に中国では一種の文化的な空白状態が生じていたのだ。
それに対して、1990年代の急速な市場経済化によって、香港や台湾を経由して多くの海外のゲーム、映画、音楽、アニメ、マンガなどが中国に(多くの場合は海賊版という形で)大量に輸入された。その中でも、1995年から1996年にかけて中国で放映された『スラムダンク』が圧倒的な支持を受けた。この作品では彼らにとって、全く新しく魅力的な世界が展開されていたからだ。
「80後」世代の若者たちにとって、『スラムダンク』はほぼはじめて現在の日本人が持っているような「青春」のイメージを提示した作品だった。それまで、中国にはスポーツに熱中し、仲間たちと切磋琢磨するという「青春」のコンセプト自体が存在しなかったのである。それまでの中国のアニメといえば、子供向けの幼稚なものや、国や親の意図に沿った教育目的の作品が主なものだったのだ。
それに対して、『スラムダンク』は恋愛、仲間たちとの友情、夢のために頑張る熱血さなど、いずれもそれまでの中国の若者たちの生活にまったくなかったイメージを提供した。
いくつか、中国人のファンたちのあいだで、よく取り上げられるシーンを挙げてみよう。キャプテンの赤木は、言うことをまったく聞かないやんちゃな主人公・桜木花道に手を焼いている。赤木がげんこつで桜木の頭にたんこぶを作るシーンは、アニメを見ていた人々にとっては定番のものだろう。中国人ファンがスラムダンクならではの“友情”を知った有名なシーンは、桜木のミスによって試合に負けてしまう海南戦にある。涙を流す桜木の頭に赤木が優しく手を置いて「これで終わりじゃねぇ/決勝リーグはまだ始まったばかりだ/泣くな」と言う場面は、2人の間に友情や絆が芽生え、桜木がチームメイトとともに成長していく様を象徴する感動的なシーンである。
失敗を悔いるのではなく、チームメイトが一丸となってその試合で何を成し遂げ、これからの試合で何ができるかを考えようという希望がこのシーンにはある。そして、同時に、桜木花道の努力に対する肯定と期待を示す台詞にもなっている。
ネットでの感想を見ると、多くの中国の若者はこのシーンから、「失敗こそ成長につながる」というメッセージを読み取っている。後に詳しく述べるような、中国のように競争が過剰な社会では、失敗すること自体がリスクであり、その人の能力のなさの証明である、という考え方が一般的になってしまっている。しかし、このシーンは結果がすべてなのではなく、仲間とともに失敗を受け入れ、その後の成長につなげることが重要だということを伝えることで、中国の読者に一種の開放感を与えている。
また、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という安西監督の名セリフは、中国でも人口に膾炙している。先日、ある中国の小さな田舎町の高校のバスケットボール部が北京の名門高校を破って全国大会で優勝したことがニュースになった。それを伝えるニュースでは「リアル・スラムダンク」と形容され、その熱血ぶりを安西監督のセリフを借りながら称える記事が出たほどだ。このセリフはメンバーである三井寿が中学時代にその言葉に励まされ、また後に彼が怪我のせいでバスケットボールをやめて、失意によって道を踏み外したあとも、再び戻ってくるきっかけともなった象徴的な一言である。
三井が顔中を血だらけにして、泣きながら心から発した「安西先生……!! バスケがしたいです………」という言葉には、あきらめていた自分への後悔や自責と、あきらめないことの大切さを思い出したときの安堵と希望が込められている。「ほんとうの自分」を手放さないことの価値を中国の若者が知ったシーンだ。
主人公の桜木もまた、試合の相手校に圧倒的な点差をつけられ、あきらめかけたとき、安西監督からその言葉をかけられる。そして、再び立ち上がってコートに戻り、自分を信じ抜くことで、最終的に試合に勝つ。テクニックや才能だけでなく、夢を諦めないという不屈の精神こそが望ましい結果をもたらすというメッセージが込められたこのシーンは、中国の若者たちを鼓舞した。今でも、多くの人が自分の「人生を変えた名台詞」としてこのシーンを選んでいるほどである。
私にとっても、このシーンには強い思い入れがある。
大学受験をする際、どの専門の学科を選ぶべきか悩んでいたとき、当然のごとく中国人の親族からは「将来性のある専攻」、ようはお金や権力につながるような進学先を選ぶように言われた。私のほんとうにやりたいことは文学だったが、中国人の両親からはきわめて無意味な進路に映っていた。日本にいる外国人という不安定な立場から、なんとか前途有望な専攻を選ぶべきだというプレッシャーもあった。
十代の私は、引き裂かれる思いのなか、現実逃避するように『スラムダンク』の漫画に読みふけった。そして、三井の「バスケがしたいです」というセリフを読み、文学専攻の学科に進学することを決心した。そうしなければ、三井のように後悔することになる――。
これらの価値観やイメージは、いずれもそれまでの中国の若者たちの生活では存在しなかったものだった。そもそも一つの事実として、中国の中学、高校には誰もが参加できる「部活」という制度は存在しなかったし、現在もごく限られた学校のみそれをもっている状態である。バスケットボールの交流試合から全国大会まで上り詰めていくという、青春を託すことができるような、はっきりとした目標や努力の“舞台”が存在しなかった。そして、バスケットボールといったスポーツがそのような舞台になりうるとも思われていなかった。
すなわち、『スラムダンク』は単に魅力的な物語を提供しただけでなく、それまで中国の若者の生活に存在しえなかった魅力的な“青春”を開示したのである。それは文字通り、「新世界」ともいうべきものだった。
2000年代に日本の漫画などのサブカルチャーは中国の民主化を促す「革命の道具」として機能する、とする議論さえ日本で出ていたが、それがあまりに楽観的に過ぎたことを中国の青年たちは後々になって知ることになる。
中国人にとって「青春」はファンタジーだった
中国では、「青春」という言葉は「80後」世代の中では「日本」のイメージと強く結びつけられている。
桜舞う校門、放課後の部活、海が見える帰り道、踏み切り(とその向こうに見える好きな異性)、文化祭、運動会、体育館裏での告白……。挙げていくときりがないのだが、こういった日本のアニメでおなじみの青春の記号は中国でも「青春」というものイメージの多くの部分を構成している。
中国人にとってもっとも象徴的なシーンはアニメ版『スラムダンク』のエンディングテーマにあるワンシーンである。主人公の桜木花道は江ノ電の鎌倉高校前駅付近の踏み切りの前に立ち、線路の向こうに桜木が想いを寄せているヒロインの赤木晴子とその友人たちの姿が見える。太陽の光を反射してきらきらと光る海を背景に向かい合う彼らの姿に、桜木の晴子に対する憧れの気持ち、近づきたいのに踏み切りのせいで近づけないもどかしさという、「青春」のイメージが象徴的に凝縮されている。そして、このシーンは日本を象徴するイメージとして「80後」世代の記憶に刻まれることになった。
ただ、日本ではそれらが現実をベースにしており、それなりのリアリティを持っているのに対して、中国の若者たちにとって身近にあるものでは決してないため、一種のファンタジーというか、憧れに近いものとなっている。
この「80後」世代の作家たちによる小説はしばしば「青春文学」や「キャンパス文学」と呼ばれていたことからもわかるように、「青春」は彼らの文学にとってもっとも重要なテーマの一つだった。そして、彼らが描く青春はそれまでの中国になかったものだった。
例えば、青春文学の旗手である郭敬明というアイドル的作家が、日本のアニメの強い影響を受けているというのは中国では周知の事実である。そして、彼の会社に所属し、同じく青春に関する作品を多く執筆してきた作家の落落はかつて中国のウェブで日本アニメのレビュー記事を執筆していたし、日本を舞台とする写真集や小説を多く発表している(本人も日本語が話せる)。
また、郭敬明が編集をつとめ、「80後」作家たちによる、世界各国の都市を巡るというテーマの紀行文集の人気シリーズがあるが、日本編では、東京でも京都でもなく、なんと『スラムダンク』の舞台である「神奈川」が舞台として選ばれている。
商業的な利益を重視することで有名な郭敬明が「神奈川」を選んだのは、『スラムダンク』を見て育った世代において、作品の舞台である神奈川、その中でも鎌倉が「80後」世代にとって「青春」を象徴する聖地となっているからである。
例えば、かつて中国のバスケットボールのナショナルチームでキャプテンを務めていた、89年生まれの周鵬選手は2017年に妻と一緒に鎌倉を訪れ、上で挙げたエンディングテーマの踏み切りのシーンを再現した写真を自身のSNSに投稿し、話題を呼んだ。
筆者と同年代の、それほど『スラムダンク』ファンでもない女性の友人も前に中国から日本に旅行に訪れたとき、飛行機を降りたあとに真っ先に向かったのが鎌倉高校前駅だった。その意味でそこはアニメファンにとっての聖地以上に、むしろ誰もが訪れ定番スポットになっているといえる。
筆者が最近驚いたのは、中国の蘇州市にこのアニメシーンにあるこの鎌倉の風景――踏み切りや江ノ電の車両など――を完全に再現した「小鎌倉」という観光スポットが作られていたことだ。さらに、再現しようとして作られたわけではないにもかかわらず、「鎌倉」の風景のイメージに似ているとして、SNSなどで若者たちによって「小鎌倉」と呼ばれる観光スポットが中国各地に存在していることだ。
若者たちは中国の土地にまで日本の風景と結びついた「青春」のイメージを重ねようとしているのである。
では、なぜ彼らにとって日本のイメージと結びついた「青春」というものがかくも重要だったのだろうか。
ここで少しだけ、中国における「青年」の歴史の話をしよう。
そもそも中国の近代化が可能となったのは、西洋の知識を積極的に吸収し、中国の改革に用いた「新青年」たちである。歴史の教科書に必ず載る、中国を大きく動かした1919年の「五四運動」はまさに青年たちの運動だったし、その思想的、文化的な基盤を作ったのも『新青年』という雑誌だった。彼らの歴史的な使命は国を変え、救うことだった。
文化大革命時に毛沢東が動員したのも青年や少年たちだった。彼らは毛沢東の呼びかけに応じて、全国各地で闘争を繰り広げ、社会と文化に甚大なダメージをもたらした。彼らに期待され、そして彼らが引き受けていた役割は「新青年」のそれと同じく、国、もしくは世界中の抑圧された人民を救うことだったのである。革命のためなら自らを犠牲にすることもいとわない。
つまり、中国の近代史において「青年」というものは国やイデオロギーに奉仕する者たち、もしくはそう期待されている者たちのことだったといえる。
それに対して、改革開放時代において、自分自身のために生きることが可能となった「80後」世代、そして彼らの感性を代表する作家たちにとって、重要なのは国や革命、人民といった「大きな何か」ではなく、あくまで個人としての内面や自由になった。
青年は国や革命といった大きなものを担うという役割から解放され、個人の内面や自由といった問題に取り組むようになったということである。
日本では「青春」はしばしば「モラトリアム」と呼ばれ、学生などが社会的な責任や義務を負うことなく、「あれこれについて悩み、いろいろな可能性に触れながら試行錯誤する時期」といった意味で捉えられてきた。
『スラムダンク』によって代表される日本のサブカルチャーが提供する「青春」のイメージは、まさに「あれこれの可能性について模索」し、自分にとっていちばん相応しい道を探すものとして、「80後」のそのような新しい個人の実現を目指す思春期にある若者たちに一つのモデルケースを提供したと考えられる。
「チャイナ・ドリーム」に破れて
『スラムダンク』というアニメの中でもっとも受け入れられていた要素の一つに「熱血」がある。
中国の近代史における青年はもちろん「熱血」だった。熱血がなければ革命を起こして国を変えようなんて思わないし、できないはずである。若い紅衛兵たちはその熱血のために人の尊厳を踏みにじり、死に追いやることもいとわないほど「熱血」だった。
しかし、上で述べたように、その熱血が何のためのものか、大きなもののためか、それとも自分の自由のためかでだいぶ異なるものになる。
「80後」世代とそれ以降の世代にとって重要だったのは、個人の自己実現である。それは仕事における成功であったり、学業における達成だったりする。頑張れば成功できる、ということが盛んに言われるようになった。
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source : 文藝春秋