戦後、数万人の在留邦人を帰還させた元アウトロー、松村義士男の実像に迫る
2度にわたり検挙された元左翼活動
長期化するロシアによるウクライナ侵攻。近隣国へと難民が逃れる様子をみて想起したのは、日本が戦争に敗れた77年前、朝鮮半島に住んでいた日本人の悲惨な状況だ。日本の植民地支配が終わり、拠り所を失った約70万人の在留邦人は事実上の「難民」と化した。
とりわけ朝鮮半島北部では、進駐したソ連軍が一方的に北緯38度線を封鎖し、在留邦人約28万人は北朝鮮に閉じ込められる形になった。ソ連や旧満州と国境を接する北東部の咸鏡北道は、ソ連軍の侵攻で戦火にさらされた。約6万人の在留邦人が住み慣れた土地と家を捨てて避難のために南下し、咸鏡南道の中核都市・咸興や興南、元山に、どっと押し寄せた。
食糧不足による栄養失調と、劣悪な環境下での集団生活。冬が近づくにつれて、発疹チフスなどの感染症が猖獗を極めた。咸興では1945年8月から翌年春にかけ、約6300人が死亡。6人に1人が命を落とした計算となり、北朝鮮で最悪の惨状だった。
そんな中、取り残された数万の日本人を脱出させた人物が北朝鮮にいた。その名を松村義士男(ぎしお)という。
1946年になり結氷が緩むと、彼は、咸鏡南・北道に残る日本人の38度線以南、すなわち南朝鮮への大量脱出とそこからの日本への引き揚げを画策。綿密に練り上げた脱出計画を、同年春から秋にかけて実現させた。当時、北朝鮮各地で「引き揚げの神様」として、その名が知れ渡ったという。
難民の救済といえば、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、約6000人もの命を救った外交官の杉原千畝が有名だ。
一方、松村は当時、34歳という若さの民間人に過ぎなかった。しかも戦前には、労働運動などによる治安維持法違反で2度にわたり検挙された元左翼活動家であり、“アウトロー”でもあった。そんな人物がなぜ、日本人の引き揚げのために身を賭したのか――。その点に私は興味が湧いた。
帰国後には延岡市で土建業を営んでいた松村だったが、1967年3月、55歳で病没した。それから55年がたち、彼を知る人は極めて少ない。だが、杉原に劣らぬ功績を残しながら、このまま忘れ去られていくのは、あまりにも惜しい。
私はこの2年の間、取材と同時に、数多くの資料にあたり松村の痕跡を辿ってきた。本稿では、そこから浮かび上がってきた「引き揚げの神様」こと松村の実像と、知られざる活躍を描きだしてみようと思う。
松村義士男(『北鮮の日本人苦難記』時事通信社刊より)
共産党入党を断った左翼活動家
松村は1911年12月14日、熊本県本庄村(現在の熊本市中央区本荘町)で、7人きょうだいの三男として生まれた。赤穂浪士討ち入りと同じ日に生まれたことから、義士男と名付けられたという。
化学メーカー「チッソ」の前身「日本窒素肥料」は戦前に日本海に面した咸鏡南道興南に化学コンビナート・興南工場を築いた。そこで勤務していた鎌田正二が編集した元社員の回想集『日本窒素史への証言』には松村に関する記述がある。
それによれば、松村は地元の尋常小学校を卒業後、父親が製材所を営んでいた北朝鮮東海岸中部の元山に移り住み、元山の中学に入学。しかし、当地で当時盛んだった「左翼運動のガリ版刷りの手伝い」(鎌田)をしていたことが発覚し、中退を余儀なくされた。このころには、社会運動への関心が生まれていたのかもしれない。
そして、20代半ばまでに、治安維持法違反で2度検挙される。
1度目は1932年4月。20歳の松村は前出の興南工場で働いていた。朝鮮人の共産主義活動家らと共謀して労働組合を再建しようとしたとして逮捕されるが、幸い、起訴猶予になった。
2度目は1936年11月で、労働組合の合併工作などを通じ、当時非合法で衰退していた日本共産党の再建準備に加担したとして、今度は大阪で捕まり、起訴された。ただ、裁判の結果は確認できていない。
内務省警保局保安課が当時作成した『特高外事月報昭和12年1月分』には、組織に縛られず、目的達成のためだけに行動する松村のプラグマチックな性格をよく示すエピソードが記録されている。
それによると、彼は共産党のオルグとして活動していながら、仲間から入党を誘われると、「正しき運動をなすにおいて、入党する要なかるべし」と主張して頑なに断ったという。
数年後、松村は再び朝鮮半島に渡り、咸興に住んだ。戦前には朝鮮総督府に勤務し、戦後に引揚者の聞き取り調査を行った森田芳夫が著した『朝鮮終戦の記録―米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(以下、『終戦の記録』)によると、建設会社「西松組」(現・西松建設)に雇われ、各地で旧日本軍の関連工事に携わった。検挙歴がある彼は昼夜の区別なく、憲兵に監視されたらしい。
避難民の惨状を目の当たりに
そんな生活を送る中、日本の敗色が濃厚となった1945年5月、松村もついに召集される。そして羅南師管区工兵補充隊2等兵として満州との国境に近い咸鏡北道会寧を守備していた時、日本の敗戦を迎えた。
「今は嘱託としてソ連軍司令部へ毎日出勤を強いられているが、逃げることもできず、せめて同胞として皆さんのためになるように陰から骨を折っておりますが、まだ実を結ぶところがなく残念に思っております」
9月10日夜。咸興に戻っていた松村は西松組の先輩社員だった河合泰助を訪ね、こう胸の内を語った。これは、河合が西松建設の社報に投稿した手記に認めている。
左翼活動家だった経歴がプラスに働いたのだろうか、混乱の最中、進駐したソ連軍司令部の嘱託として職を得た。在留邦人にソ連軍の意向を伝える役回りを務めていたらしい。
冒頭で触れたように、敗戦と同時に朝鮮奥地からは大量の日本人避難民が南下し、その大移動は1945年秋まで続いた。咸興に着いたほとんどの避難民は無一物に近い窮状で、誰もが憔悴しきっていた。栄養失調や感染症による死亡者が8月末から出始め、9月末までにその数は1105人に達していた。
「避難者の集団が増える一方で、収容する場所もなく、近頃では畳1枚あたりに10人以上の割合です。発疹チフスは蔓延し放題で抵抗力の弱い者から死亡し、毎日20人、30人と多くなるばかり。火葬という処置もできなくなり、元気な者に山裾に毎日大きな深い穴を掘らせ、仏様はここに投げ込み赤土をかぶせるだけです。私も日本人として、実に心苦しく、いろいろと悩んでいます」
松村は河合に自分の非力を嘆き、焦る気持ちを吐き出した。避難民の惨状を目の当たりにしながら、遺体を火葬にするための薪さえ手に入らず、粗雑に埋めるほかなかった。そんな状況に深い苦悩を抱いていた。だが、忸怩たる思いは、やがて大きな実を結ぶことになる。
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