アニメと英霊 第1回

『すずめの戸締まり』と「裏天皇」

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天皇・神話・震災……なぜ日本のサブカルチャーは右傾化するのか? 新海誠監督『すずめの戸締まり』(2022年)、海上自衛隊と『ONE PIECE』、庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』(2016年)などを論じた、批評家・大塚英志氏による短期集中連載第1回。

◆◆◆

「残念ながら日本の教養の原点はジャンプ」

 この原稿は一通のSNSの投稿から始まる。

 1月2日、防衛省海上自衛隊(@JMSDF_PAO)とあるアカウントに、甲板の先端に旭日旗を掲げ「正義」と背に白く描いたTシャツ姿で腕を組む隊員たちの写真とともに「今年も専心職務の遂行にあたります!」とのコメントがSNSに投稿されたのだ(現在は削除)。その後ろ姿からは学園祭ノリの幼さ、あるいは元ヤン的なドヤ顔が透けて見える気がして、自衛隊文化とは今はこんな感じなのかと一瞬思い、そしてその元ネタが『少年ジャンプ』の人気まんが『ONE PIECE』にあると思い至るまで、正直に言えば少し時間がかかった。同作に登場する「海軍」の白コートの背には「正義」と描かれていて、同様の意匠のTシャツも市販されているはずだ。海自と米海軍が共存する海軍の街・横須賀市では、2019年、『ONE PIECE』とのコラボ企画で、上地克明市長がこの「正義」コートを羽織り、東京湾の猿島に向かう後ろ姿を撮影した写真がオンライン上にみつかるはずだ。安倍マリオに始まり、「日本文化」化したコスプレと政治や行政の野合にはもはや神経は鈍麻しているが、それでも海自という「国防」組織の年初の決意を示すツイートが『ジャンプ』からの引用であることには、ある種の感慨を持った。つまりナショナルな意識を公が大衆に表明しようとする時、それを支える教養の変容とでもいうべきものを改めて実感せざるを得なかったのだ。メディア史ではナショナリズムの大衆的教養は大日本雄弁会講談社の提供する文化として明治以降、永らくあったというのが定説だが、それが『ジャンプ』にとって変わったのかという程度の感慨ではあるが。

 無論、『ジャンプ』が「教養」化したのは自衛隊員の職業意識に於いてだけではない。オンラインで実行犯を募る強盗グループの指示役は「ルフィ」と名乗っていると盛んに報道もされた。そういったことも含め、何年か前、川上量生が『朝日新聞』のインタビューで「残念ながら日本の教養の原点はジャンプ」になってしまったと発言したことを改めて思いだす。

 そこで川上はこう述べていた。

 欧州中央銀行の会見でドラギ総裁に女性が襲いかかる事件が起きた時、「女性の南斗水鳥拳にドラギ総裁が気功砲で応戦した」とネットやテレビで話題になった。社会で何かが起きて気の利いた風刺をしようとした時に出てきたのが「北斗の拳」の例。知的な笑いを表現しようとしたら、その素材は「ジャンプ」になった。昔の人の「オデッセイア」にあたるものは、今の日本人には「ドラゴンボール」ですよ。残念ながら日本のインテリの教養の原点は「ジャンプ」だというのは、現実として認めないといけない。(2015年8月17日付 朝日新聞デジタル「川上量生さん『残念ながら日本の教養の原点はジャンプ』)

 川上が言及したのは、2015年4月16日、ドラギ総裁の記者会見中にドイツ人女性が乱入し、紙吹雪と罵声を浴びせた事件の報道に対するSNSの反応である。川上は解釈のための共通の知を「教養」と呼ぶが、「EBCの独裁を終わらせろ」と抗議する乱入者の政治的文脈は『ジャンプ』的「教養」には一切、回収されない。サブカルチャー的教養はその背景の歴史や政治を剥離させる機能をしばしば持つからだ。もちろんこの場合の「サブカルチャー」という語法はかつて、江藤淳の語った「サブカルチュア」、つまり歴史からも地勢図からも解離した文化状況を指す語法に倣っている。

 その意味で海自Tシャツからは、同じ写真で船上に掲げられた旭日旗が常に東アジアで政治的な軋轢の種としてあることや、臨時閣議だけで決まってしまった「安全保障関連三文書」の改定など、昨年末の岸田内閣の防衛政策の暴走も一切、表象しない。これを現代美術家・村上隆のかつての日本文化論をやや悪意を以て引用し、ナショナリズムの「スーパーフラット」化というのも虚しいが、政治や政治的な「日本」はすべからく、まるで村上隆のアートのようになってしまった。安倍マリオ以降、政治やナショナルな領域でのサブカルチャーの借用(「引用」などと書くとわずかにでも批評的価値を認めてしまうことになる)は、その局面局面で背後にある、最低限、思慮すべき政治や経済さえも剥離させることに貢献してきた。つまりこの国の有権者がバカになっていくことに貢献していた。

 サブカルチャーを参照して了解されるもの以外は、そのフラットすぎる器に何も盛れないのである。『ジャンプ』的「教養」の圏外に、ひどく初歩的な政治や経済や文化や科学が駆逐されていることの例は逐一、指摘する必要もないだろう。これは、アニメやまんがが悪いわけではない。アニメやまんがの借用で事足りると思い込む政治が「浅い」のである。

「古層の実装」と新海誠

 だが、僕は、もう一方で、その「浅さ」と対照的な現象が同時進行していることに幾ばくか危惧を感じる。

 さすがにこの「浅さ」に耐えかねて、と言うことなのだろうが、それは一言で言えば「古層の実装」とでもいうべきナショナルなものの語られ方だ。つまり、「浅い」表層の下にいささか安直にもう一層、「古層」を用意するのだ。

 そのことに改めて思い当たったのが、新海誠のアニメーション『すずめの戸締り』である。そして同様の印象を例えばこの数年間、『シン・ゴジラ』の批評に英霊を見出す言説の一般化や、何よりも柄谷行人が柳田國男に回帰し「固有信仰」と言い出したことにも感じたことを思い出した。

 これらは、海自の無邪気なコスプレよりはいささか厄介だ。

 敢えていえば「知的」といえなくもない。だが、僕が困惑するのはその「古層」の平坦さである。

新海誠著『小説 すずめの戸締まり』(2022年、角川文庫)

 例えば新海誠の近作でいえば、セカイと私が直結する世界像にもう一層、レイヤーを導入する二階建の世界になる。『すずめの戸締まり』では現実の世界の下にもう一層、要石が地震の神を封じる地下世界がレイヤーとして存在するのだ。

「古層」とは例えばそのことをいう。

 無論、このような作品世界の二層化は、ゲームやラノベの世界では珍しくない。

 新海は今回、村上春樹の影響を強調するが、村上の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の二層構造が、麻枝准のコンピュータゲーム『AIR』『クラナド』などの世界像に移植されたことは、ぼくの見解ではなく元学生から熱心に説かれた記憶があった。うろおぼえで書けば、『クラナド』だと「幻想世界にいる私」と「現実世界にいる私」、『AIR』なら「カラスとして存在する現実世界」と「私として存在する現実世界」からなり、確かに世界の二層化は『海辺のカフカ』や『1Q84』あたりでも村上春樹が好んで採用した図式だった。実はこの二層化の話は、学生に大江健三郎を読ませたところ返ってきた反応で、学生は大江が麻枝准のように「読みやすい」と言ったのだ。そして麻枝准の作品が村上を介して間接的に大江の『M/Tと森のフシギの物語』の影響を受けているのではないか、とまで言うのだった。実際、笠井潔が村上春樹と美少女ゲームやラノベの相互関係について論じていたはずで、その直系としての新海誠のとるべき必然的な選択として『すずめの戸締まり』が、いわば彼の「村上春樹化」としてあった、でアニメ評論としては留めてもいいのかもしれない。

 しかし、やはりその「古層」の描かれ方が気になる。櫻井よしこが安倍晋三の物語にヤマトタケルの「古層」を見ても驚きはしないが、新海が『すずめの戸締まり』で神話的古層を描き、それが普通に受け入れられていることにオールドスクールの左派であるぼくはやはり困惑する。

 物語は主人公の少女と「閉じ師」と称する青年のロードムービーである。二人は要石を抜いたことで解放された地震の神ミミズをその出口となった「後ろ戸」の鍵を閉じて封印して回る。そして最後は彼女自身の内的な「古層」である東日本大震災時の記憶の扉を開け自己救済する。

 井戸経由ではないが、地下世界を降下しての自己救済は村上春樹的だ。

 そのクライマックスに至る過程で地下世界に封印された「恋人」(閉じ師)を救済するというプロットが入る。これは宮崎駿の『千と千尋の神隠し』における千尋によるハクの救済のプロットと重なるが、その引用なりオマージュというよりは、ジブリが繰り返してきた女性ヒロインの成長譚の構造の正確な踏襲といっていい。ここで詳しく描かないが、新海誠は『星を追う子ども』以降、かつて村上春樹や中上健次が試みたキャンベルやプロップの物語構造を実装する試みを意図して繰り返している形跡がある。この「物語構造の実装」が同作以降の新海作品の特徴である。

 そして、この「物語構造の実装」が、新海作品を日本サブカルチャーの特徴である「構造しかない物語」として際立てていくことになる。「構造しかない物語」問題は随分昔に論じたので繰り返さないが、「物語構造しかない物語」はその「薄さ」(この場合はflatやthinでなくwelk)を補填するために異世界を導入して二層化、あるいは三層化してみせる傾向にある。例えば村上なら『海辺のカフカ』が父殺しの物語構造を生きるナカタさんと、カフカ少年の教養小説的な女性遍歴がレイヤー化して同時に進行する。

『海辺のカフカ』の場合はこの古層から日本兵が登場して読者を困惑させたはずだ。しかし村上春樹は、コミットメント宣言以降、戦時下の歴史を「古層」に配してきた。近作では、南京大虐殺などゼロ年代以降、タブー化の傾向にある歴史を彼の小説に実装してきた。その背後には南京虐殺に自分の父が関与したか否かという宙ぶらりんの問いがあったことが、父親の戦争責任をめぐるエッセイから現在は透けて見えるが、この戦時下の「実装」は村上の世代交代したスーパーフラットな読者を随分と困惑させたはずだ。

村上春樹著『海辺のカフカ 上巻』(2005年、新潮文庫)

 それでも村上には、古層は戦時下という、現在の足元にある「歴史」だった。

 そういえば村上春樹と大抵はパラレルな隘路を辿る宮崎駿も、前回の引退作(ヽヽヽヽヽヽ)『風立ちぬ』で、関東大震災や日中戦争が起きる現実の世界と主人公の脳内のファンタジー世界を二層的に描いた。興味深いのは、その二つの世界のいずれかを主人公が選択するラストだ。実は、ラストで死者となった恋人が「来て」と主人公を死者の国、つまりファンタジーの世界へと誘う結末が宮崎のシナリオだった。しかし、実質、音響監督役の立場だった庵野秀明のアドリブで「生きて」、つまり生者として現実を「生きなさい」というメッセージに変更されたと言われる。「生きて(ヽヽヽ)」の「い」という一文字の追加で前作『ポニョ』での胎内回帰願望の「リバウンド」(庵野)として試みられた、戦時下青年の教養小説的成長譚の最後での成熟忌避(それは村上春樹の定番でもあったが)を阻止し、作品を救ってみせたのだ。この一文字の追加によるファンタジー方向へのレイヤーの消去は、宮崎作品に決定的な「批評」である。「ファンタジー」と言う現実逃避の「層」への退路を絶ったわけである。

 庵野が、何故、『エヴァ』つくり直しの中で主人公の少年に成熟忌避を貫かせ、二十年がかりで「成熟」させえたかと言えば、この「批評」が最後は自作に向いたからである。

 やや話が逸れかけたが、村上にせよ宮崎にせよ、そのレイヤー化は「戦時下」、つまり歴史の範疇として現在と接続する過去としてあって、それは均質化した世界に現実の「歴史」への扉を開くという意図としてあった。無論、それをことばでいうのは容易く実践するのは極めて難しい。宮崎駿も息子・宮崎吾朗作品に脚本とプロデュースで参加した時には、日本の朝鮮戦争への協力という「歴史」を少女まんがが原作のフラットな世界に導入している。村上の「戦時下」にせよ、庵野の『風立ちぬ』救済にせよ、二層化は作品が批評性を内在させる契機にもなりうる。

『すずめの戸締まり』に登場する「裏天皇」

 だからこそ、新海誠が導入した戦時下ではない「古層」のあり方が気になる。

 それは平坦で浅い世界への「批評」なのか。

 そうならば、なぜ、「歴史」でなく「裏天皇」のいる「古層」が導き出されなくてはいけなかったのか。

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source : 文藝春秋

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