未婚で私を産んだ母とは高校から別居生活──初告白(聞き手・構成 石戸 諭・ノンフィクションライター)
私は父母との幼い頃の思い出がほとんどありません。股関節が脱臼した状態で産まれる「先天性股関節脱臼」という珍しい病気で1歳半から入院生活を送り、両親と過ごした記憶がないのです。私は3歳頃まで実家に一度も帰ることなく、治療のため東京都世田谷区にある国立小児病院(当時)で暮らしていました。いつも両脚を180度に開くようにギプスで固定されていて、歩くどころか動くことさえままならない幼少期だったのです。
物心がついたのも病院の中です。初めて覚えた言葉は「せんせい」で、主治医や看護師の方が私にとっては、はじめての「家族」のような存在でした。実の母は時折、見舞いにやってきていたようですが、その記憶がどうしても思い出せません。「おうち」と呼んでいたのは病院で、歩くことができない私は同じ病院にいた他の子どもたちにたくさんいじめられたことを覚えています。後になって知るのですが、あのとき国立小児病院にいたのはサリドマイド薬害の被害者だった子どもたちで、私よりもずっと重い病気を患っていたのです。
先天性股関節脱臼は難病で、当時の見込みは「手術をしても歩けるようになるのは難しい」というものでしたが、手術と治療の結果、小学校を卒業する頃にはほぼ完治しました。ただ、退院後もしばらく脚にギプスをつけて生活していましたし、脚の長さも病気の影響で右の方が長く不ぞろい。退院したばかりの頃はなかなか実家に慣れず、「おうちに帰りたい」、つまり病院に戻りたいと泣いては母を困らせていたそうです。
こんな生い立ちを人に話すと、「大変な幼少期でしたね」と同情されることが多いのですが、波乱万丈だったのはむしろ実家に戻ってからでした。母はシングルマザーで、保険の営業で生計を立てていました。
その後、ある日を境に私は10代半ばにして母と別居することになります。これまでの連載では私が芸能界に入った後、爆笑問題の2人や事務所の「タイタン」のことを語ってきました。今回は、初めてきちんと母と私の半生について語ってみようと思います。
彗星のごとくデビューした爆笑問題。同じ事務所に所属するタレント同士として出会った太田光と光代氏は入籍したものの、爆笑問題の2人の暴走による独立騒動でテレビでの仕事は急速に減っていった。一念発起してタレント事務所「タイタン」を立ち上げた光代氏のもと、爆笑問題は日本屈指の売れっ子芸人へと“奇跡の復活”を果たす。その陰の立役者である光代氏の半生が、爆笑問題のキャリアに負けず劣らず波乱に富んだものだったことはあまり知られていない。彼女が秘してきた「母と宗教」について明かす。
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