大河ドラマじゃ見られない! 「日本資本主義の父」が愛した女性だけに見せた顔──
真砂に住むお妾さん
「帰途一友人ヲ訪ヒ、夜十一時半帰宿ス」
500の企業を育て、600の公共事業に携わった実業家・渋沢栄一。彼の日記には、しばしば「一友人」という言葉が登場します。どうやらこれはただの友人ではなく、親しくしていた女性を指すらしい。
日記を書いたとき、渋沢は68歳。真砂に住むお妾さんを頻繁に訪ねていたようですが、彼には、生涯で彼女のほかにも何人も親しい女性がいたことがわかっています。
渋沢の4男・秀雄はこう振り返っています。
「兄も私も父の家にいたころ、たまに兜町の事務所から帰宅する父の自動車に乗せてもらうことがあった。
『御陪乗願えましょうか? と訊いて、すぐ“ああ”と返事したときは真っすぐご帰館だが、“うん?”という曖昧な返事のときには即座に引き下がらねば……自動車は本郷4丁目の角を左に曲がる晩なんだよ。』当時、父の『一友人』は本郷真砂町に住んでいたのである」(『明治を耕した話』)
私の専門は19世紀のフランス文学ですが、30年ほど前、渋沢がパリで学んだという資本主義そのものの研究があまりなされていないことを知り、探求心を掻き立てられました。原稿用紙1700枚近くに及ぶ評伝を書き進めるうちに、渋沢のこれまで取り上げられなかった私生活についても知るに至ったのです。
渋沢の生涯を辿る大河ドラマ「青天を衝け」ではきっと描かれないでしょうが、その女性関係を知らずして渋沢栄一を語ることはできません。そこには、謹厳実直一辺倒でない彼の魅力が詰まっています。
2人の妻と何人ものお妾さんを持ち、一体どのような生活を送っていたのでしょう。
渋沢栄一
100両を情事に使い込む
渋沢は19歳のときにいとこの尾高千代と結婚します。当時でもかなりの早婚ですが、ここには渋沢の父の思惑がありました。尊王攘夷にかぶれた渋沢は、おとなしく家業の藍玉作りに励むことをしなくなった。所帯を持たせれば少しは落ち着くのではないか、との父の考えから実った結婚でした。
実際の渋沢は所帯を持って落ち着くどころか、ますます政治に深入りしていきました。1863年、高崎城乗っ取り計画に頓挫した彼は、ついに妻と乳飲み子を残して故郷を離れることにしたのです。
京都までの道中、彼はなかなか奔放な女遊びをしています。
「正しいことに使いなさい。今後は身を誤ることのないように」と父からもらった餞別の100両を手に、江戸でさっそく吉原に足を踏み入れます。吉原は江戸最大の遊郭。当時23歳の彼は、故郷に妻とわが子を残しながらも、その誘惑には勝てなかったのでしょう。
江戸を出てからも渋沢の女遊びは続きます。東海道には、それぞれの宿に「飯盛り女」と呼ばれる娼婦がいましたが、どうやら道々で飯盛り女との交渉があったようなのです。
そして伊勢参り。庶民の間で大流行した伊勢神宮への参拝は、その後の古市遊郭での“精進落とし”までがセットでした。つまり、伊勢参りを済ませた男たちは、その裏手にある花街で歓楽に耽っていたのです。渋沢ももちろん例外ではなく、そうこうしているうちに京都に着くと手元不如意に陥りました。100両ももらったのに、かなりいい気になって散財したんでしょうね(笑)。京都で過ごした3年間で、新選組と恋の鞘当てを繰り広げたという話も残っています。
幕臣となり、徳川慶喜の弟・徳川昭武に同行してパリへ行ったときも、面食いの渋沢はパリジェンヌを前に目を丸くしちゃう。「なんて美人揃いなんだ」と。
当時のパリは私娼率が高かったから娼婦なのだろうけれど、あるフランス人女性に惚れこんだ渋沢は、「ぼくと君は縁が深いようだ。ぜひとも日本に来てくれないか。これからの人生をともに暮らしていこう」と誘うわけ。でも、「何言ってんのあんた。バカじゃない。図々しい」と一蹴される。“お持ち帰り計画”があっけなく散った彼は顔色を失った、という逸話が残っています。
2024年から新紙幣に
「若い元気な頃には相当……」
振り返ってみれば、江戸時代末期には文化も徐々に成熟し、日本にも“サロン文化”というものが出来上がりつつありました。
まず、接待ホステスというべきか、新しいタイプの芸者さんが柳橋の舟宿などに現れた。吉原の娼婦のように来たお客を一方的に受け入れるのでなく相手を選ぶ、一種の社交レディです。
そこへ明治維新が起きて、それまで刀にもの言わせていた薩長の武士たちがやって来るようになります。口ベタで野暮な侍が芸者さんのところへ行くと、彼女たちはみな馬鹿にしながら相手をするわけです。男もそれに負けじと洗練されてくる。武士が武力でなく、“粋”かどうか、つまりセンスのいい会話ができるかでモテるかどうか決まるようになったのです。
男同士でも「どうだ、俺の方がモテるぞ」とか言って競争するわけですね。僕はこれを「ドーダ競争」と呼んでいますが(笑)、そうやって、今でいう銀座文化、つまり大正・昭和の文化人や知識人たちが銀座の社交サロンに集った、あの文化の礎ができました。
かの伊藤博文や井上馨もたいそうな女好きで芸者さんに入れあげていたらしいのですが、実際に2人は芸者さんと結婚しています。結婚を血と血、家と家の繋がりと見ていた江戸時代の上級武士の家では、そのようなことは絶対に許されません。だから一概に2人が遊び人だったというわけでもなくて、身分を超えた結婚はある意味、新しい時代の象徴とも見ることができるのです。
渋沢は、深谷の農民の出から武士になり、明治の高官の仲間入りをしました。
「私も若い元気な頃には相当によく遊んで、芸者なぞとの噂も立てられたものだ」。回顧録のなかでそう述べ、伊藤には「渋沢というのは堅苦しい男かと思っていたが、芸者買いができるとはなかなか話が通じるな」と言われた、とも振り返っています。自分は芸者と渡り合える通人で、だからこそ井上や伊藤とも対等に付き合うことができたのだ、と匂わせているのですね。
さて、これだけ外で女遊びをしていた渋沢のことを妻はどう思っていたのでしょうか。
幼馴染でいとこ同士だった渋沢と千代は、その頃には珍しいことに今の恋愛結婚にかなり近く、互いに恋慕の情は抱いていたと思います。それでも明治の世、一定以上の立場の男性にとっては、妻というのはある種の共同経営者だった。「家」という名の会社をともに運営し、血縁をつないでいくためのパートナーだったのです。夫が外で働き、家庭の実質的な経営は妻が担うというのが当時理想とされた家族の形です。
渋沢も、千代に求めていたのは家庭運営でした。特に千代は武士の妻の鑑というべきか、いわゆる“烈女”。倒幕に失敗した渋沢が家を離れるときも、生まれたばかりの乳飲み子を抱えながら、「もしあなたの計画が失敗に終われば一家親族重い罪に問われるでしょう。けれど、国のために真心を尽くす大丈夫の妻子と言われることをどうして厭いましょうか。いや、潔く命も捨てようとさえ思いました」と言う気丈さを見せたほどです。
第一国立銀行
「妻妾同居」が機能していた
当時、一定以上の地位についた男がお妾さんを養うことは珍しくもなく、妻もそれをわかっていたので、「妻の運営する家族という組織にお妾さんがいる」のは不思議なことではありませんでした。
たとえば東邦電力などを興して「電力の鬼」といわれた松永安左エ門という人の妻は、自ら夫の妾を選んでいたといいます。本当に女好きでお妾さんがたくさんいた彼ですが、実は妻がすべて「この子はダメ、この子ならオッケー」と差配していた。さすがに妻が妾を選ぶというのは他に聞きませんが、実は渋沢家にも、千代と一つ屋根の下でともに暮らすお妾さんがいました。
明治4年、渋沢が31歳で大阪に赴任していたときに出会った、大内くにという女性。くにを現地妻とした渋沢は、千代の許可を得たのち神田の新居へ彼女を連れ帰り、同居させています。しかも2人はほぼ同時期に子どもを産んでいる。
千代、その妹、渋沢の妹、そしてくにが並んだ集合写真が残されていますが、くにの堂々とした写りっぷりたるや、まるで『大奥』のような「妻妾同居」が、渋沢の良き子孫を残すための合理的システムとして機能していたことがよくわかります。実際、渋沢と千代の間に生まれた子どもたちは、幼い頃からともに暮らしたくにに非常に懐いていました。千代をコレラで亡くしたあと、渋沢がくにではなく外から後妻を迎えることにひどく反対したほどだといいます。
千代(写真右)とくに(左)
明治の世、支配階級に成り上がった元幕臣たちは妻妾どちらとの間にもたくさん子どもを作りました。
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source : 文藝春秋 2021年9月号