映画女優原節子の生涯は謎に満ち、様々な伝説を生んだ。彼女は1962年の映画出演を最後に銀幕から姿を消すと、完全な隠棲を半世紀以上も貫き、2015年に95歳でひっそりとこの世を去った。
原節子伝説のひとつに、小津安二郎監督との恋愛説(純愛説)がある。曰く、秘かに思いを寄せていた愛する小津が亡くなり、ショックを受けた原は小津の通夜への出席を最後に世間から姿を消し、世捨て人となった――というものだ。だが、私は評伝『原節子の真実』を書くにあたって、この伝説には、根拠がまるでないことを確認した。原が映画に出なくなるのは小津が亡くなる以前からのこと、小津の死後、脚本家野田高梧の通夜にも出席している。では、なぜこのような伝説が生まれたのか。
原は『晩春』(1949年)『東京物語』(1953年)といった一連の小津作品で心優しく美しい娘や未亡人を演じた。あまりにも優れた作品であり、また、あまりにも原節子は美しい。奇跡のような作品。これを観た人々が、監督は女優を愛し、女優もまた監督を愛していた、だからこそ、このような名作が生まれたのだ、と、思いたくなるのは心理として当然かもしれない。原も小津も独身で、ふたりが結婚するというデマが流され、映画の宣伝に利用されたことも影響したのだろう。だが、実際には2人が恋愛関係にあった、という事実はない。小津には恋人がおり、原にも恋愛感情はなかった。それどころか、原は小津映画を代表作とされることに、抵抗を感じていたことが、発言からわかる。彼女は好きな出演作を聞かれても頑なに小津作品を挙げず、多くの人が絶賛した『晩春』の主役、紀子の性格を「好きじゃない」と言い、映画界から去る間際まで「私には代表作はない」と述べ続けているのである。
原は小津の映画で家族に愛される娘や良妻を演じたが、そういった役よりも悪女や自我の強い女性を演じたいと願っていた。松竹のホームドラマより、ドラマチックな洋画が好きだ、とも。そして、そんな彼女の好みに合致したのは、松竹の小津ではなく、東宝の黒澤明だった。そこには義兄からの影響も多分にあったのだろう。原は「最も尊敬する監督は義兄の熊谷久虎」と答えるほど義兄を尊敬していた。熊谷は躍動感のある思想性の強い作品で戦前に高く評価された監督で、その作風に黒澤は近い(熊谷は「黒澤は自分に影響を受け、自分を真似て成功したのだ」と語っている)。
恋をすると相手が不幸に
黒澤は助監督時代から将来を嘱望され、子役から脱却してスターになりつつあった高峰秀子に思いを寄せられたこともあったが、1945年に東宝の女優、矢口陽子と結婚。矢口は女優としては目立たぬ人で、その後、家庭に入っている。
そんな黒澤にとって原節子は、手が届かぬところにいる東宝の大スターだった。いつか原を主演に映画を撮りたいと願い続け、戦後になってようやく夢を叶える。『わが青春に悔なし』(1946年)で原を起用。黒澤の喜びは大きかった。
「僕は今、幸枝(注・原節子の役)という女に夢中になっている。勿論、この女は作品中の人物であるが、今の僕の頭の中では現実よりもっと生々しい存在である。(中略)日本の女には珍らしく自我が強い」と語り、原もまた、黒澤に鍛えられた喜びを熱く述べている。
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