いまこそ『はだしのゲン』を生かそう

神田 香織 講談師
ニュース 社会 読書

『はだしのゲン』は原作者の中沢啓治さんがご自身の被爆体験をもとに1973年から「週刊少年ジャンプ」で連載された自伝的作品です。私は1986年にこの作品を講談化して以来、講談師人生の大半をゲンとともに歩んできました。作品の素晴らしさを全身で感じてきただけに、広島市教育委員会が『はだしのゲン』を小学3年生の平和教育教材から削除するというニュースには衝撃を受けました。なんでも、「浪曲で日銭を稼ぐ描写は現代の児童に馴染まない」「他人の池から鯉を釣る場面が、窃盗を助長する」ため、説明が必要で「漫画の一部引用では被爆の実態に迫りにくい」のだとか。私は10年前、島根県松江市教育委員会が学校図書館での閲覧を制限しようとした事件を思い出し、すぐにSNSに怒りの声をあげました。

「被爆の実態に迫りにくい」とのことですが、逆です。被爆の実態をリアルに表現し、「自分の身に起きたら」と想像させる力がある漫画だからこそ世界中で読まれているのです。また「浪曲の説明が大変」? 浪曲は日本の三大話芸の一つです。その時代の空気感がよくわかるし、ついでに講談についても子どもたちに教えて欲しいところです。

 投稿には多くの賛同をいただきました。たまたま広島県三次市に講談教室の生徒がいました。彼と、「教科書問題を考える市民ネットワーク・ひろしま」が中心となり、削除撤回を求める電子署名を開始。「はだしのゲン」緊急講談会も企画してくれました。こうして3月4日に緊急講談会開催の運びとなり、ほぼ満席の120人が参加。新聞、TVの取材も各社集まり、関心の高さが窺われました。講談後に登壇した被爆者の元高校教諭、豊永恵三郎さん(86)は「戦争は教育から始まる」ときっぱり。続く意見交換も熱気を帯び、小学校の『はだしのゲン』、中学校の『第五福竜丸』削除のみならず、高校でも中沢先生のインタビューが2ページから1ページに減らされ、被爆体験の部分が抜けてしまったとの報告がありました。広島で一体、何が起きているのでしょうか。

 講談「はだしのゲン」は、サイパン玉砕の戦跡を見たのがきっかけで、1986年8月に国立演芸場で産声をあげました。

 私が舞台俳優を目指していた頃、発声法の勉強のために二代目神田山陽師匠の元に通い始めたのが講談との出会いです。独特の力強い発声法を学ぶうち、一人芝居のように演じる楽しさに触れ、1年後には講談協会に所属し、前座修業に入りました。3年間の修業を終え、プロとしてスタートする「二ツ目」に昇進した時、友人たちとサイパンへ遊びに行きました。バンザイクリフなど戦跡を見学する中で「戦争」をテーマに講談を作ろうと思い立ちます。帰国後に沖縄、広島、長崎と戦跡を巡り広島平和記念資料館の売店で漫画『はだしのゲン』を見つけたのです。戦争原爆の悲劇を力強く元気に訴える作品はこれだ! と確信。初演を聞いた被爆者の方からは「自分たちは年老いてゆく、代わりに伝えて」と言っていただきました。以来、37年語り続けています。

 中沢先生が「私たちの壮絶な体験を踏み台にして、幸せを噛み締めて生きて欲しい」と常々仰っていた通り、その魅力は、思い切り想像力を刺激し、五感に訴え、ゲンたちの「生き抜く力」に触れられることにあります。毎回の講談で反響の大きい場面。ゲンは、家の下敷きとなった父に「逃げろ!」と言われ、身重の母と猛火から逃れ、直後に生まれた赤ん坊にこう叫びます。「もう二度と戦争なんかさせんぜ。わしゃお前を守ってやる!」。こうした描写に大人も子どもも、食い入るように物語に引き込まれます。

 漫画は読むことで、講談は聴くことで、それぞれの感動や疑問が「芯」となり「考える力」が培われます。馴染みのなさや、いまの常識とかけ離れた行動は、かえって読み手や聞き手の想像力を培い、戦争原爆の悲劇を力強く訴えるのではないでしょうか。

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source : 文藝春秋 2023年5月号

genre : ニュース 社会 読書