本田宗一郎が磯部さちと見合い結婚をしたのは、宗一郎が29歳、さちが20歳の時だった。宗一郎は浜松で自動車修理工場の経営を大きく成功させていた。さちは地元の高等女学校専修科を卒業した、当時としては学歴の高い才媛で、じつに美しい女性だった。宗一郎は、その後の56年間の人生をともにする、すばらしい伴侶を得たのである。
さちは自分の父親に、「婿さんは遊びも盛んらしいが、仕事はできる。遊びもできない男はダメだ」と言われていたそうだが、たしかに宗一郎の遊びはかなり激しいものだったようだ。しかしさちは、それらをすべて呑み込んで、家庭を見事に治め、宗一郎を支えつづけた。宗一郎もまた、さちを大切にしつづけた。
本田宗一郎に藤澤武夫という事業の上での名パートナーがいたことは有名な話だが、作家の城山三郎が「藤澤という宗一郎とはかなり個性のちがう人とパートナーを組んでどうでしたか」、と問うたとき、宗一郎は「藤澤の意見がもっともだと思ったら、世界の45億人の人間の代表の言葉だと思うしかないね」と答えた。さらに城山が、「親友でも、夫婦でも、45億の代表だと思えばいいんですね」と突っ込むと、宗一郎の答えはあらぬ方向へといった。
「その中で一人だけちがうのがあるけンど、女房(笑い)。
あれはどうもしようがない。代表として選んだんじゃないもンだから(笑い)。神様の次だ。あれはこたえるよ(笑い)」
宗一郎はさちに叱られる自分の姿を、ときに語っていた。「いまだに私は悪いことをして、時々女房にどなられるんだ。その時はなさけない顔をしていますよ」と。
この言葉は、経済雑誌のインタビュアーが宗一郎に「実業人としての顔だけでなく、教育者の顔も持っていますね」と問うたときの答えとして、「自分には3つ目の顔もありますよ」といったときのものである。
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source : 文藝春秋 2023年7月号