野村克也監督といえば、名捕手・名将であると同時に“恐妻家”としてもよく知られており、彼の人生は良くも悪くも妻の沙知代さんに大きく左右されました。
2人の交際が報じられた当時、野村監督は前妻との離婚調停中の身。それを咎められ選手兼任監督を務めていた南海ホークスを解任されますが、監督は迷うことなく「仕事はいくらでもあるけど、伊東沙知代という女は一人しかいない」と言って南海を飛び出しました。とはいえ野球界復帰の手立てもなく気落ちしていた監督に、沙知代さんは「なんとかなるわよ!」と力強く声をかけ、2人は縁もゆかりもない東京で新たな一歩を踏み出したのです。晩年、監督はこの時のことを「あの一言は大きかったね。前向きなんや。いいバッテリーというか。本当に勇気づけられた。本当になんとかなったわい」と照れ笑いを浮かべました。
「なんとかなった」のは、“婦唱夫随”の姿勢で行動したからです。監督は現役選手を引退後、沙知代さんの強い勧めで数多くの講演を引き受けました。沙知代さんは監督に講演を積極的に行うよう促し、面白そうな本を渡し、さまざまな業界の人を紹介した。監督が「あの時の講演料で家が建った」と言うほどの成功の陰には、沙知代さんの存在があったのです。沙知代さんは妻であり、名プロデューサーでもありました。沙知代さんが亡くなった後、監督は「いろいろあったけど……彼女がいたから、ワシはここまでやれた。それだけは間違いない。サッチー以外の人と一緒になっていたら、こんな風に監督になっていなかった。そう思うよ」と目を潤ませていました。
1997年、私は「サンケイスポーツ」の記者として、野村監督率いるヤクルトスワローズの担当になりました。当時は駆け出しの記者でしたが、その後「愚痴の聴き役」として20年以上、監督との交流が続いたことは私の人生にとって大きな財産になっています。
夫婦関係における最大の危機は、2001年に訪れます。沙知代さんが脱税の疑いで逮捕されたのです。監督は何も事情を知らなかったのですが、責任を取るかたちで阪神タイガースの監督を辞任。この時ばかりは、息子たちまでもが「お父さん、別れていいよ」と離婚を勧めたといいます。しかし監督は、「そうしたらお母さんは一人になってしまう。いまの彼女を支えてあげられるのは、ワシらしかおらん。家族でマミーを支えよう」と、沙知代さんを見捨てることはありませんでした。
沙知代さんを心から愛していた監督ですが、沙知代さんの監督への愛も並大抵のものではありませんでした。沙知代さんはとにかく監督の周りに女性がいることを嫌っていて、監督が携帯電話を持っているのを見つけると、容赦なく真っ二つにへし折る。仕事関係の女性も全排除で、私も沙知代さんにはなかなか挨拶してもらえませんでした(笑)。
「一緒になって幸せだったのか」
長生きされるだろうと思っていた沙知代さんですが、2017年12月8日、自宅の居間で息を引き取りました。お墓すら準備していなかったほど、突然の死でした。その後の「お別れの会」でお会いした監督は、車椅子に乗るほど憔悴しきっていて、弔問客の声も耳に入っていない様子でした。生きる気力すら失いかけているようにさえ見えました。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2023年7月号