明治の元勲クラスの政治家には、元芸妓と結婚した者が多い。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、陸奥宗光、山県有朋、桂太郎、児玉源太郎、西園寺公望などがそうで、むしろ元勲と称された者はほとんどがそうだったとさえ言える。
結婚の経緯はさまざまであるが、幕末維新期に志士として活動する中で知り合ったケースが多い。幕府に追われる身であった木戸(桂小五郎)が、京都の二条大橋周辺に乞食姿で潜伏し、後に妻となる幾松(松子)からよく握り飯を持ってきてもらったという逸話は有名である。
大久保利通は鹿児島に妻満寿を残していたが、京都祇園の料亭「一力」で働いていたおゆうと深い仲になり、錦の御旗を作るのを手伝ってもらったと伝えられている。おゆうは大久保にとってかけがえのない存在となり、明治以降も第二夫人として東京に住んだ。木戸や大久保のケースは、国事に奔走する中で花街に出入りし、芸妓と「同志」のような関係になった結果であった。
一般に江戸時代には結婚は親が決めることが多く、身分や居住地域による制約も大きかった。明治以降人びとはそうした羈絆から徐々に脱していったが、恋愛や結婚が自由になるには長い時間がかかった。これに対して元勲たちは、自らの意思で結婚相手を決めたケースが多い。当時の社会通念では第二夫人(妾)を持つことも許容されていたので、状況は複雑であるが、彼らが真剣に恋愛をし、結婚のあり方にも強い個性と意思が反映していたのは間違いない。
伊藤博文の結婚もこのような一例として捉えることができる。伊藤は、幕末に松下村塾の同門入江九一の妹すみと最初の結婚をした。この結婚は親が決めたもので、伊藤は結婚式を挙げに山口から一夜限りで萩に戻ったものの、その後一度も同居することはなく、萩の外を飛び回って志士活動に従事し続けた。
結局両者は、数年で協議離婚に至った。伊藤の娘婿末松謙澄(二女生子の夫)が彼の私生活面をまとめた伝記『孝子伊藤公』(1911年)には、「この離縁は双方とも無理ならぬ理由のあったことである」という関係者の談話が掲載されている。伊藤は、親に結婚を決められ、いったんはその意向に従ったものの、結局妻のことを好きになれなかった。伊藤はすみに申し訳ないという気持ちがあったようで、すみが明治期に再婚するにあたって、裏で尽力をしたと伝えられている。
実はすみとの形式だけの結婚生活が続いている間、伊藤は下関で一生の伴侶となる女性と運命の出会いをしていた。女性の名前は木田梅子。伊藤より7歳下で、下関の亀山八幡宮の境内にあった茶店でお茶子として働いていた。伊藤が藩内の政争で命を狙われていた際、梅子が同神社の境内で彼をかくまったのが、2人の出会いのきっかけだったと伝えられている(中尾定市『伊藤博文公と梅子夫人』)。
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source : 文藝春秋 2023年7月号