文藝春秋が報じたスポーツの肉声

創刊100周年記念企画

生島 淳 スポーツジャーナリスト
エンタメ スポーツ 歴史
野茂、カズ、岡本綾子、川上哲治、大松博文、人見絹枝……。スポーツの言葉は時代を映す鏡だ。

スポーツの勃興期から

 文藝春秋の100年は、日本のスポーツの発展とほぼ軌を一にする。

 日本が初めて参加したオリンピックは1912年のストックホルム大会。最初の夏の甲子園は1915年。箱根駅伝は1920年に始まり、そして文藝春秋の創刊号が発売された1922年には、ラグビーの第1回早慶戦が開催されている。

 神奈川大学の人間科学部教授で、指導者として箱根駅伝優勝の経験を持つ大後だいご栄治は、「100年継続すれば、それはその国にとっての文化」と語るが、日本におけるスポーツの勃興期から、文藝春秋は選手たちの肉声を伝えてきた。

 特に「文春らしいなァ」と膝を打ったのが、戦前から戦後にかけてのスターが一堂に会し、オリンピック事情を一気に振り返る63年7月号の「オリンピックの英雄たち」。

 これは文藝春秋が得意とした「マンモス座談会」のスポーツ版で、日本人初の代表選手である金栗四三かなくりしそう、最初の金メダリスト織田幹雄、競泳の金メダリストで後にIOC副会長となった清川正二《まさじ》、日本女性初の金メダリスト前畑秀子ら、実に24人による豪華布陣の座談会である。

 いまもオリンピック閉幕後にメダリストが雛壇に並んでエピソードを披露する番組があるが、なんのことはない、このマンモス座談会の焼き直しだ。

 座談会では、冒頭から金栗の発言が続くが、「今みたいにマイルとかキロは言わんです。十里マラソンというわけで……」というあたりに時代が感じられる。そして28年のアムステルダム大会で金メダルを獲った織田幹雄は、事前にイギリスで調整をしていたと話す。

「直前にロンドンで試合があったので、ブライトンという避暑地で練習したのですが、それで調子がすごくよくなった」

 ブライトン! 2015年にラグビー日本代表がW杯で南アフリカを破った地ではないか。続いて、織田は金メダルを獲ったあとのことをこう振り返っている。

「ホッとしましたね。これで助かったというのでしょうか。でも、日の丸をみたらちょっと涙がでました。それより本当に嬉しかったのは、みんなにかつがれて控室へいったときでした。広田(弘毅氏、故人。当時駐オランダ公使)さんが来られて、全員で『君が代』を合唱しようということになった。そして、みんなで大声で歌ったのです。けれども、もうみんなが泣いていて、歌っているうちに次第に声が大きくなって、『君が代』を最後まで歌えなかったのです。ただ、肩を抱き合って泣くばかりで……」

 織田幹雄の名は今も代々木にある「織田フィールド」、旧国立競技場の「織田ポール」(このときの三段跳の優勝記録、15メートル21センチの長さ)として伝えられることになるが、この時に音頭を取った広田弘毅は文官としてただひとり、A級戦犯として絞首刑に処された。

 これをはじめ時代を感じられる貴重な記事は少なくないが、今回はこの100年で大きく変化したトピックから選んでみた。「スーパースター」「プロ野球」「相撲」「指導者」「女性アスリート」の5つである。

1999年4月号 馬場が去り、プロレスは死んだ アントニオ猪木
1962年11月号 太平洋横断ひとりぽっち 堀江謙一
1995年8月号 君には大リーグがよく似合う 野茂英雄/江夏豊
2005年3月号 日本人の誇りを胸に イチロー
1975年2月号 いまこそ言う巨人軍の内幕 川上哲治/虫明亜呂無
1989年12月号 千代の富士が月に吠えてた頃 九重勝昭
1992年6月号 「外人横綱不要論」は人種差別だ 小錦八十吉/ ライアル・ワトソン
1964年11月号 根性・闘魂・指導力 市村清/大松博文
2006年9月号 これがオシム流監督術だ イビチャ・オシム/川淵三郎
1929年12月号 世界記録と私 人見絹枝
1988年1月号 賞金女王までの7年 岡本綾子
1996年8月号 私のオリンピック日記 有森裕子

●スーパースター 

1999年4月号 馬場が去り、プロレスは死んだ アントニオ猪木

 第二次世界大戦中はスポーツにとっても暗黒の時代であり、ヒーローが消えた時代だ。では、戦後になって日本のスポーツ界における最初のスーパースターは誰か? と問えば、プロレスの力道山ではなかったか。弟子であるアントニオ猪木が、戦後プロレス史を当事者の立場から振り返っている。とにかく力道山の描写が凄まじい。

「給料もなく、力道山からの小遣いだけでやりくりしていた私のことを、アゴだのコジキ野郎だの移民のガキだのと、大勢の人の見ている前で侮蔑された。いきなり靴べらで叩かれたり、火のついた葉巻を腕に押しつけられたこともあった。

理由もなく殴られて、料理包丁で刺してやろうかと思ったこともある。もちろん、私には師匠を殺すような度胸はない」

 猪木は力道山の力の源がネガティブなものであることを、傍にいて感じ取っていた。

「力道山のプロレスとはなんだろう。それは『怒り』だったのではないか。力道山が戦後の焦土に作られたリングから伝えようとした怒りは、戦争に敗れた日本人が抱えていた劣等意識を表現して、鬱憤を晴らしていたからこそ愛されたのである」

 まさに戦後を言い表しているではないか。一方、5歳年上のジャイアント馬場に対して猪木は激しいライバル意識を燃やしていた。「おたがいに独立して、罵り合いながらこの野郎と思っているときで、2人とも強烈なエネルギーを放射していた」と書くが、猪木の目からは、晩年の馬場は「経営と選手活動を両立させることに力を注ぐようになって、明らかに肉体は衰えはじめた」とハッキリと書くあたりは格闘家の視点である。

 それにしても、馬場が61歳で亡くなっていたとは意外だった。もっと老齢だと思っていたからだ。

1962年11月号 太平洋横断ひとりぽっち 堀江謙一

 力道山の「負」の力によって、プロレスはポピュラリティを得たが、戦後日本のヒーローの系譜には、好奇心と冒険心、行動力が人を魅了した流れもある。その代表が62年に小型ヨットによる太平洋単独無寄港横断に成功した堀江謙一である。

 62年11月号には彼の航海記が35ページぶちぬきで掲載されている。この航海記が公開された経緯が「編集部記」としてこう記されている。

「堀江君は固く決心していた。

『航海日誌だけは、アカの他人にいらわせて、たまるもんかいな!』

切実な実感であった。日誌こそは彼にとって、ヨットマンの命だったのだ。

だから、つい最近まで、堀江君は頑強にその公開をこばみつづけた」

 大阪の海上保安監部に密出国の容疑で取り調べを受け、証拠品として日誌をしぶしぶ提出し、その存在が明らかになったのである。

 23歳だった堀江青年は「マーメイド号」で62年5月12日に西宮を出航するが、「所持金が日本円で2000円。沿岸でつかまったときの用意だ。これだけあれば、家へ電報も打てるし、帰りの旅費にもなるだろう」と綴られている。この冒険は5年間、合法的な出国手続きを探した果ての密航だった。

 たったひとりの航海は単調どころか、スリリングなものだ。日本の沿岸での他の船舶との駆け引き。喉の渇き。洋上ではクジラと遭遇する。

「フカとちがって、クジラの顔はかわいい。いかにも、乱暴はしない感じ。だけど大きい」

 そして読書の時間。

「朝から、『実験漂流記』を読む。高校2年のときに買った愛読書だ。読みなおすたんびに、味のあることが、つぎつぎに出てくる」

 出航から94日、ついにアメリカに到着。

「ウワァー、アメリカや! サンフランシスコや! ヤッタッターッ!」

 そして最後は、簡潔に結ばれる。

「快晴のま昼である。日本晴れだな、とおもった」

 そして今年、83歳になった堀江謙一は3月26日にサンフランシスコを出発し、日本に向けて航海を続けている。

 海の堀江謙一に対して、山といえば冒険家の植村直己だ。70年12月号に「世界の五大巨峰を征服して」というタイトルの手記を寄せているが、彼は登山に関してはずぶの素人だったのに明大山岳部に入る。

「さんざん痛めつけられても、ぼくは山岳部をやめる気にはならなかった。ぼくにも意地があった。ただ、このまま続けていったら殺されてしまうだろうと本気で思った」

 つらい学生生活のなかでも彼の原動力となったのはロマンである。

「氷河がたった一つの夢だった。なんの能力もないばかりか、愚鈍さを笑われてばかりいるようなぼくに、将来の生活設計なんてあるわけがなかった。オレの将来なんか、どうなってもいい。暖かいフトンのうえに寝なくても一日3食のメシをきちんと食わなくても、生きてだけはいけるだろう。将来のことは、アルプスの氷河を一目見てから考えたらいい」

 そして66年、モンブランを皮切りに五大陸最高峰の攻略を開始する。70年5月11日には日本人として初めてエベレスト登頂に成功するが、山頂に立った描写はいたって淡々としている。

「9時10分、松浦さんが頂上に立つ。ぼくは下から松浦さんの姿をムービーとカメラにおさめる。ぼくの登山靴のアイゼンが、頂上の固い雪に食い込む。2人で抱きあい、握手する。

さて、一つの使命は果した。次はなにをするか、どこへ行くか。世界でいちばん高い場所に立って1時間、快晴の展望を楽しみながら、ぼくはぼんやりそんなことを思った」

 そして8月26日、北米最高峰のマッキンリーの山頂に立つ。

「テントに入る。これで終った。2年前に自分の行く手を定めた目標、五大陸の最高峰に立つことはこれで完了した。この終りが、また次の目標への始まりになる」

 振り返ってみれば、60年代から70年代にかけては「エクスプローラー」、探検、冒険の時代だった。日本経済は成長を続け、オリンピックでも団塊世代の選手たちが中心となり、男子体操、バレーボールが世界の頂点を極めた。

「8年間ためてきた」

 戦後のオリンピック史で、燦然と輝くのは柔道の山下泰裕だろう。引退するまで実に203連勝の金字塔を樹立する。84年10月号の「日の丸の旗にオレの血は燃えた!」でこの戦いを振り返っているが、いちばん恐れていたケガを、よりによってオリンピックの2回戦で負ってしまう。「一瞬、これは危ないんじゃないか、もう勝てないんじゃないか」と思ったそうだが、モスクワ大会ボイコットによって生まれた執念は凄まじいものがあった。

「オリンピックは4年に1回。ぼくの場合は、モスクワ五輪中止で8年間に1回。8年間ためてきたものを、この日1日の、たった5分間でだしきらなきゃいけないわけですから、もう、試合がはじまる前から異常な精神状態だったんです」

 決勝ではラシュワン(エジプト)を押さえ込んで、山下は悲願の金メダルを獲得する。

「押えこみの30秒間のことを、よく『ながく感じたでしょう』と聞かれるんです。見ている人からすれば、ハラハラして、早く30秒こいという気持ちだったんでしょうが、ぼくからすれば、1時間でも! という気分だったから、ちっとも長くはなかった」

1995年8月号 君には大リーグがよく似合う 野茂英雄/江夏豊

 山下が金メダルを獲得したロサンゼルスで、95年に「トルネード旋風」を巻き起こしたのが野茂英雄である。日の丸をつけて国際舞台で戦うわけではなく、ひとりの若者が独力で可能性を切り拓いたのだ。

 95年8月号では、その年にロサンゼルス・ドジャースに移籍したばかりの野茂と、現役生活の終盤にアメリカ野球に挑戦した江夏豊の対談が掲載されている。この対談はロサンゼルスと東京をつないだ「オンライン対談」。まるで時代を先取りしていたかのようだ。

 ここで野茂はアメリカでプレーする喜びを幾度となく話している。

「野球を楽しめることが一番アメリカに来てよかったことですね。それもマイナーリーグのキャンプから始めたでしょう。マイナーリーグには、とくにドミニカの選手が多いんですけど1Aにも入れないんじゃないかという選手がいるんです。彼らは本当に目を輝かせて、野球ができるだけで幸せだという顔をしているんですよ。

最初にそれを見た時に、練習は苦しむもんじゃないんだと思ったんです。彼らは、練習でも、たとえ試合で打たれても、気分さえ良ければいいんだと言うんですね。だから今、8試合投げて、ゲームで学んだことはまだ何もなくて、ただ楽しんでやるんだということだけを感じてますね」

 その姿勢は、その後の日本人メジャーリーガー、特に大谷翔平に色濃く受け継がれている気がする。

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野茂英雄

 90年代に野茂をはじめ、日本人選手の海外進出が同時多発的に起きたのは、80年代末からの衛星放送の発達によって、海外のプロリーグがライブで見られる時代になり、決して海の向こうの出来事ではなくなったこと、そしてF1の世界ではホンダ、中嶋悟らのドライバーが世界で戦っていたことなどが相乗効果となって表れた結果だと見る。

 その意味で、それ以前からブラジルで過ごしていた「カズ」こと三浦知良は先駆者的な存在だったといえる。彼にとって最大の失意は、日本のサッカーW杯初出場が叶った98年のフランス大会で、直前でメンバーから外されたことだろう。98年8月号「カズ独占全告白」で、こう心情を吐露する。

「『残念です』っていうだけじゃないし、『悔しい』だけでもないし、何かこう胸が痛むような感じっていうのがあるんです。なんか、ボーッとしちゃうというか」

 無念さがストレートに表現されているが、この人が正真正銘のスターだなと思うのは、メンバー外となり、帰国会見のことをこう振り返っていることだ。

「スポーツ・ジャーナリストはああいう場所だと大人しいですね。芸能レポーターの方が存在感あるもの。僕は極端な話、もっとストレートに聞いてもらっていい場合があるんです」

 カズをメンバー外としたのは岡田武史だった。岡田は2010年のW杯でベスト16に進出した後の10月号「W杯決戦と『坂の上の雲』」で、監督の仕事についてこう書く。

「監督として当然とはいえ、決断することは苦しさを伴います。もちろん1人1人の選手に愛情がありますから、あれだけ頑張っている選手を外していいのか、プライドもあるのに選手を潰すことにならないか、ここまでやってきたのにかわいそうではないかなど、悩み始めればきりがありません。前回日本代表の指揮を執った98年は、初の代表監督だったこともあり、こうした決断はのたうち回るほど苦しいものでした。一晩中寝ずに悩んだこともあったくらいです」

 選手選考の裏と表。監督に、そして選手にそれぞれ事情と思惑がある。

三浦知良
三浦知良

2005年3月号 日本人の誇りを胸に イチロー

 21世紀に入ると、海外に挑戦するだけにとどまらず、世界でも日本人選手が名を残す時代に突入する。01年、シアトル・マリナーズに移籍したイチローはそのシーズンにMVPを獲得し、04年には262安打というメジャーリーグ記録を樹立する。インタビューを読むと、周囲との調和を重視せず、独特の流儀で仕事をしていたことが分かる。

「チームという組織に入る以上、ある程度は必要だと思いますけど、それだけではダメでしょうね。僕は、野球がなければアメリカに絶対に受け入れてもらえなかったと思います。(中略)そう考えると、コミュニケーションなんて、あまり大事じゃないのかもしれない」

 イチローは孤独な時間、空間を恐れない。

「そもそも僕、団体行動が大嫌いですから、日本人が少なくても気になりません。日本にいた時、ホテルでみんな一緒に食事をするじゃないですか。そういう時でも僕は、一人だけ違うテーブルで食べるのが好きでした。みんな、だいたい誰かがいる方へいくでしょう。でも、僕は誰もいない方にいく。無理してるわけではなくて、前向きに、そっちへいく。みんなのところへいってしまう自分の方が、よっぽど寂しい(笑)」

 団体競技というより、個人競技の選手の発想にも見えるが、孤立を恐れない姿勢が成功の要因のひとつだったように読める。

 個人競技では、ゴルフの松山英樹が21年にマスターズでグリーンジャケットに袖を通し、日本人男子として初めてメジャータイトルを手にした。松山は14年から主戦場をアメリカに移しているが、2シーズン目の15年、10月号「『日の丸』を背負ってメジャーで勝つ」で、当時の現在地を語っている。

「体格で劣る日本人だから勝てるわけがないと、卑屈になる必要なんてまったくない。

そもそも僕は、自分が日本人であることを意識してはいません。米ツアーの一員として戦っている以上、国籍は関係ないとさえ思っている」

 一人のアスリートとして国籍を超越しているのは、イチローと松山に共通している。そして23歳だった松山はこう文章を結んでいる。

「メジャーで勝つ。

その一心でこれからも頑張っていきたいと思います」

 21年、松山は29歳になっていた。

イチロー
イチロー

●プロ野球

1975年2月号 いまこそ言う巨人軍の内幕 川上哲治/虫明亜呂無むしあけあろむ

 今回、文藝春秋を集中的に読んでいて分かったが、日本のスポーツの歴史で途絶えることなく大きな意味を持ってきたのは、野球と大相撲だということだ。野球に関していえば、「巨人」が中心にいた。

 1936年、正力松太郎の発案によって巨人が誕生、50年にセ・パ二リーグ制によるプロ野球がスタートしたが、2季目の51年に日本一になったのは巨人である。時の指揮官はシベリア抑留から帰国し、すぐに監督になった水原茂。

 優勝監督となった水原は、当時42歳。51年12月号には「野球監督の狙ひ」という文章が寄せられ、戦後の巨人軍の様子が分かる。

「去年初めて監督になった時は、私が久しぶりで日本へ帰ってみると、戦争前に苦楽を倶にした川上君、千葉君などが、すっかりおとなになっていて、満天下を唸らすような選手になっている」

「おとな」になったと評された川上哲治は、戦後のプロ野球に大きな足跡を残したが、彼を理解するうえで重要な文章を水原は書いている。川上は51年、サンフランシスコ・シールズのキャンプに参加したが、当時の巨人は選手の権利意識が強く、「三原脩監督排斥運動」が起きていた時期だった。

「川上君がアメリカから帰って来た。彼はアメリカで、監督絶対主義、選手が監督の批判など絶対にしない、という空気を体験して来たから、各選手に、『監督の良否はシーズンが終った時に自然に答えが出てくるものだ。われわれプレヤーは監督の命令通りに動かなければいかん』と、懇々と話していた」

 後に川上は管理野球によってV9を達成することになるが、川上野球のルーツがアメリカにあったことが示されていて興味深い。

軍隊経験はプラスだったか?

 川上は監督として、65年から73年にかけて「V9」を達成するが、監督を退いた後の75年2月号で、作家・虫明亜呂無との対談形式で話をしている。読むと、このふたりに戦時中からつながりがあったことに、まず驚く。

虫明 私は、昭和18年に学徒動員で岡山の歩兵連隊に入り、翌年の3月、立川の飛行整備学校に入学しましたが、その時、川上さんは、そこの小笠原中隊の区隊長をしておられた。いわば、ぼくらの直属の教官でしたが、よく日本刀をバットがわりにして振っていましたね。

川上 もう野球に憑かれていましたから、長いものを持つとつい振ってしまうという習性になってたんですね。(笑)

 川上が尋常ならざる野球人であったことが伝わってくる。虫明が打撃にとって軍隊経験はプラスだったかと問うと(この問いかけ自体がすごい)、川上はこう答えるのだ。

「わたしにはプラスだったと思います。ほんとをいえば、私は弾の下をくぐりたかった。軍隊に入った頃は、まだバッティングのコツを会得していませんでした。(中略)戦争に行って死線をさまよってくると、少なくとも欲といったものはとれて、(注・バッター)ボックスでも平然とできるんじゃないかと思ったわけです」

 なにやら「剣豪」のような発想ではないか? 軍務に服していた時の川上の苛烈さの証言もある。

虫明 軍隊での川上さんの鉄拳はすごかった。人間が飛ぶんですね。

川上 殴るときは、だいたい一発でした。

虫明 パーンと、鉄腕アトムみたいに飛んだですよ。二メーターは飛びました。

 ユーモアにくるまれてはいるものの、現代ではこの言葉を誌面に載せることは不可能だろう。時代の証言として貴重である。

川上哲治
川上哲治 

組織への忠誠心

 川上は守備を鍛え上げて安定的な戦力を維持し、長嶋茂雄、王貞治というスーパースターを擁して「V9」という時代を築いた。私のイメージでは、戦後日本を代表するふたりのスターは、管理野球と揶揄された川上巨人においても「埒外」の存在だと思っていた。

 ところが、2000年の日本シリーズで長嶋巨人と王ダイエーが対戦した後の01年2月号「だから監督はやめられない」を読むと、この思い込みは吹き飛ぶ。なかでも目を引く小見出しが「チーム愛の世代」というものだ。

 われわれの時代にはチーム愛があったじゃないですか。

長嶋 そうそう、そうそう。

 今はイチローを始め、チャンスがあったら自分のチームを離れることに抵抗ないですね。われわれの時代には、一つのチームで選手生活を全うするのが一番いいんだという考え方がありました。

長嶋 もう純粋にね、チームに骨を埋めるというなにか古い観念があったんですね。

 長嶋は1936年生まれ。王は1940年。終身雇用制の価値観の中で生きてきた世代だ。1974年に引退した長嶋の「わが巨人軍は永久に不滅です」という肉声は戦後日本を彩る名言だが、ふたりの発想の土台に、組織、巨人への忠誠心が強烈にあったことは注目に値する。

 川上のアメリカでの体験を最初の一滴として、巨人は「忠誠心」という太く、大きな川を作ってきたと言えるだろう。

巨人の遺伝子

 しかし、どんな組織にも反乱分子は生まれる。前出の川上の記事には、早大出身で将来の幹部候補生と目された広岡達朗についての言及がある。「一番いけないのは、物の考え方です。みんなと融合しない人を優先的に(注・チームから)出しましたね」と前置きした上で、広岡に対して容赦ない人物評を浴びせる。

「彼は自分が常に正しいと思っている人でした。また、それだけのことをやった人でもあります。こういってはなんだけど、ゴロの精神が見抜ける人です。私がバッティングの心がわかるように、彼は球の心がわかっておった。技術的には立派です。ところが、それがいい方向に展開してくれればよかったんですが、頭がよすぎるために不遇なプレーヤーがいると同情する形になった。同情すると勢いそれが幹部批判になるという可能性があった」

 かくして広岡は66年に巨人を離れ、以後、ヤクルト、そして巨人の最大抵抗勢力となる西武の監督となり、巨人を苦しめる存在となる。

 1980年以降、プロ野球界で黄金期を築いたのは広岡―森祇晶の西武であり、王が福岡で礎を作ったダイエー、そしてソフトバンクである。いずれも巨人の遺伝子をくんだチームであり、巨人がプロ野球界に与えた影響がいかに大きかったかが分かる。

 だとすると、巨人とは関係のない文法で時代を築いたのは、野村克也ただひとりではないか。生前、楽天の監督時代に取材した際、野村は私にこう語っている。

「監督というのは、自分が教わってきた指導者、誰かひとりの影響が強く出るものです。長嶋、王は川上さん。星野(仙一)は明治の島岡野球の影響が強い。私ですか? 南海の鶴岡(一人)さんです。鶴岡さんは結果論の人でね。プロセスは無視して、結果だけで判断する監督で、私はそれが嫌だったんです。だから、私はすべてのプレーが説明できるようにしたかった」

 つまり理を追求して巨人に勝とうとした。それが「野村ID野球」と称されるようになり、今へと続いている。92年5月号に掲載された野村と森の対談、「新・悪の管理学」は、名将とうたわれたふたりのアプローチの違いが分かって興味深い。

野村 ミーティングというのは当然ためになる話をしなければならない(中略)ではなんのためにするかといったら、選手の中に監督に対する信頼を植え付けるためにはどうしても必要なんだ。まず監督である自分のことを理解させないことには、試合中に以心伝心、一言ですぐに選手が動いてくれるようにはならない。言ってみれば儀式みたいなものです。

森 僕は、チームリーダーとなるべき人間にミーティングの中できちんと話をさせるようにしている。そうすれば、みんなついてくる。そのへんの工作というのは非常に大切なことですよ。例えば清原に「今日はこういう話をするから、こう答えなさい」とミーティングの前に言って置く。(中略)若い集団というのは、誰がその中のボス的な存在であるかというのを見極めて、そこをうまく操縦していかないと、なかなか求心力を持たせられないよね。

野村 まぁ、僕はそこまでようテクニックは使わんがね。

 この発言を読むと、「工作」という単語に象徴されるように、森が巨人の流れをくむ管理野球を標榜していたのに対し、野村は理論を武器として選手から共感を得たうえで、判断の自由を保障していたように見える。ふたりの指導者の影響は大きく、森門下からは伊東勤、渡辺久信、秋山幸二、工藤公康、野村門下からは髙津臣吾が日本一監督になっている。

 一方、保守本流である巨人からは、日本一、3度の原辰徳が生まれた。コロナ禍により開幕が遅れた2020年の8月号「プロ野球は国民とともにある」で原は、「日本のプロスポーツにおいては、プロ野球界がリーダーシップをとらなければならない。そのためにもジャイアンツが絶対に先頭に立っていこうと思っていた」と話している。

 球界の盟主だけでなく、日本のプロスポーツ界の牽引者であること、この自覚が巨人という球団のアイデンティティである。だが、戦力均衡の時代にあって「勝たなければならない意識」が、時に闇雲な補強につながっている気がしないでもない。文藝春秋からは、巨人を中心とした「プロ野球興亡史」が浮かび上がってくる。

●相撲

1989年12月号 千代の富士が月に吠えてた頃 九重勝昭

 昭和の時代、「巨人・大鵬・玉子焼き」と称されるほど、プロ野球と相撲の人気は圧倒的だった。

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source : 文藝春秋 2022年6月号

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