本田宗一郎とタッグを組み、“世界のホンダ”を育てた名経営者・藤沢武夫(1910〜1988)。孫で劇作家・舞台演出家の藤沢文翁氏が思い出を語る。
貿易商の両親はパリにいることが多く、幼い頃から六本木にあった祖父の家で暮らしました。ホンダの副社長を退いたあと、祖父は自宅で骨董屋を営み、趣味人の生活を送っていました。いつも和服姿で、夜は常磐津の師匠を招いて稽古をする。小学生の私を連れて歌舞伎、オペラ、落語などへ出かけ、子ども相手にビジネスの話も平気でする人でした。
ホンダでは「ゴジラ」と渾名されたほど大声で怒鳴りつけた逸話が残っていますが、怒鳴られた記憶はありません。ただ、小言はしょっちゅうでした。
祖父がお手伝いさんにお茶を頼んだとき、「僕も」と言ったことがあります。すると祖父は「ちょっと待て。おれは脚が悪いからお願いしたんだ。五体満足で一銭も稼いでないお前がなんで頼む」と咎めた。「ごめんなさい」と謝ると、「ごめんじゃないだろう。大層な理由があるなら聞こうじゃねえか」と江戸弁の小言がはじまります。「お手伝いさんも家に帰れば一城の主だ。お前がアゴで使うのは違う」という。
祖父は「人間は褒められるために生まれてきた」が口癖でした。ホンダで「私の履歴書」みたいに社員の功績をまとめた冊子を作ったのも、社員の家族に彼らの偉業を知ってもらいたいという祖父の哲学が根底にあったのでしょう。
私は絵が苦手で、学校で描いた絵を先生や同級生にからかわれたことがありました。祖父に「見せてみろ」と言われて渡したら、後日その絵をもとに祖母の帯を仕立てさせました。歌舞伎やパーティーに締めていくと、「あら、斬新で素敵」「どちらの先生が描いたの?」と褒められる。「こんなもんよ」と、祖父と祖母が私を励まそうと仕組んだいたずらでした。
本田さんと祖父には、趣味が正反対のせいか、不仲説があったようです。スポーツカーを運転し、ゴルフやお酒が好きな本田さんに対して、祖父は運転しないし、下戸でした。社員たちの前で本田さんは祖父のことを「六本木」、祖父は本田さんを「西落合」と住んでいる場所で呼んでいたのも疎遠な感じを与えたのかもしれません。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2023年1月号