数々の歴史小説を書いた国民的作家・山岡荘八(1907〜1978)。連載18年におよぶ大著『徳川家康』を読破した際の感慨を、元内閣総理大臣の野田佳彦氏が綴る。
私は、万巻の政治学テキストよりも、時代小説から政治の要諦を学んできた。司馬遼太郎の夢と志、藤沢周平の凜とした佇まい、山本周五郎の人情の機微、池波正太郎の粋、それぞれの描く世界の虜になった。しかし、山岡荘八はなぜか読んだことがなかった。
長引くコロナ禍が未踏に挑む契機となった。夜の会食が激減し、本を読む時間が増えたからだ。一昨年2月から『徳川家康』を読み始めた。毎晩寝る前に数十ページずつ読み続け、やっと9月に読了した。山岡荘八が18年もかけて書き継いだ大著は、枚数にして400字詰め原稿用紙で1万7400枚。文庫本にして26巻。読み応えはたっぷりだった。
織田信長の「剛毅」と豊臣秀吉の「智謀」を兼ね備えている上に、家康には「堪忍」があった。その生涯は忍耐で貫かれ、その政治は決して急激なものではなかった。じっくりと腰を据えて八方を睨みながら漸進主義に終始した。それこそが約260年も続く泰平の世を切り拓いたのだと思う。
家康は徳川家家訓の一つとして、「堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え」と遺している。家康の辛抱強い性格を表していると思っていたが、山岡の小説を読んで、「堪忍」が半端ではないことを改めて知った。
動乱期に弱小松平家に生まれ、幼くして母との離別。そして今川家への人質。父の非業の死。さらには不幸な結婚。嫡子を切腹させ、正妻を斬る決断も余儀なくされる。
これほどまでに過酷な運命に耐えることができないと、乱世を終わらせ平和を創る天命に辿り着けなかったのか。山岡荘八が存命ならば、問い質したかった。
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source : 文藝春秋 2023年1月号