父・池内紀が亡くなったと知らされたのは、8月30日の早朝のことだった。この日がやがて来ることは覚悟していた。少し早い気はしたが、昨年の酷暑で著しく体調を崩した父の肉体と精神が、刻一刻と衰えていく様子を垣間見ていたがゆえに、驚きはさほどなかった。残された母の元へ、西に向かう電車に延々と揺られながら、今後すべきことと、その順序に思いを巡らせた。文筆家である父の最大の気がかりは「誌面に穴を開けない」ことだっただろう。「葬儀は身内だけで」行い「全てを終えてから世間へと公表」する。このいずれかが欠けても、一つ順番が狂っても、父の最期として、ふさわしくない。
父の日々の生活は規則正しかった。朝の3時ごろ、早朝というには早すぎる、まだ「深夜」と呼ぶべき時間に起き出し、ミシミシと木造の建売住宅の階段と床を踏みしめて身支度をすませ、早々に机に向かう。万年筆を走らせて独特ののたくった字を原稿用紙(晩年は白紙のコピー用紙に自ら罫線を引いていた)に記し、それをFAXで送信する。送り返されてきた文字起こしやゲラに目を通し、また万年筆で校正を入れてFAXで送り返す。盆も暮れも正月もこの繰り返しであり、夜の宴も早々に中座してきて、このペースを乱すことはまずなかった。
父には文学と出版の世界に多くの知己がいたが、その誰をも家に招き入れたことはなかった。編集者との顔合わせや原稿の受け渡しは、駅前の何の変哲も無い喫茶店で行われた。喫茶店が現代的なカフェに生まれ変わるたびに、別の店を探した。
家は完全に私的な空間であり、外部の人間の入る余地はなかった。おそらく息子の私も一時的な逗留者に過ぎず、ここを共にしたのは母しかいない。世間の人が想像しているかもしれない「文化人」の社交や享楽の余地は一寸もない、原稿用紙に文字を書き続けるための都合に全てを従わせた、町工場のような家で、父は死の前日まで、この手順を崩さなかった。
父は繰り返し語っていた。「人間、身の回りのことを自分でできなくなったら終わりだ」「お前たちに介護の苦労をかけることはない」。こういった他者の介在を許さない筋の通った断言に対しては、「またカッコつけて」という反発を内心に抱いたものだ。しかし最後の五年、一年、一月、そして一週間の父の様子を振り返ると、身体の機能が一つずつ失われ、知力を働かせることが困難となり、思考の精度が衰える中で、自らの言に違わず、最期の地点を見定めていた。
亡くなる前夜、自らの家で日々の所作をこなしながら自ら原稿を書き続けていくことが、もはや困難、と覚(さと)る出来事があったようである。「救急車を呼び、病院へ行きましょうか」と促した母を制して、父は自らの足で寝室に向かい、床に就き、再び起きることがなかった。夫が息を引き取ったことを、母は長年の習慣からか、朝の3時に気づいた。
死とは徹頭徹尾、私的な営みであり、近しい身内によってのみ伴われるものである。しかし原稿を書いて誌面に載せるということにほぼ全てを費やした父の私的生活は、社会と不可分である。近頃はかなり少なくなっていたが、それでも新聞や雑誌のコラムや解説などを月に10本ほど引き受けていた。これらの各社に知らせなければ誌面に穴が開く。しかし知らせれば、報道機関であるのだから、報じるしかない。その場合、家族が父を送る平穏な時間は失われる。残された手書きの原稿やFAX送受信記録からは、父は入れるべき原稿は全て入れ、校正を待つ間のわずかな合間に、息を引き取ったようだ。原稿を何よりも優先した父らしい死に方は、ついでのように、父の死を受け入れる私的な時間を身内に与えてくれた。
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source : 文藝春秋 2019年11月号