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「この旅がなければ北極で死んでいたかも」 探検家・角幡唯介の『極夜行前』

「この旅がなければ北極で死んでいたかも」 探検家・角幡唯介の『極夜行前』

『極夜行』に至るまでの物語

note

便利になって劣化していく生

――それでも生きてはいけますよね。

角幡 それでも生きていけるけど、ただ生きているだけになってしまう。自分で判断し、思考し、行動をおこし、その結果を引き受けるという一連のサイクルを経験することに人間らしい生はあるような気がします。それが僕は自由という言葉の意味なのだと思う。それにもちろん能力も劣化するし。20年前に比べて人間ひとりひとりの能力はすさまじく劣化していると思います。便利になって、行為者から単なる観察者になっていっているわけですから。AIになって単純労働から解放されて人間らしい仕事ができるようになるっていうけど、人間らしい仕事って何なんでしょう。僕がやっていることもロボットにやらせればいいじゃないかということになります。でも北極の土地を橇を使って犬と一緒に旅する。それで創造的な本が書けたりする。新しい知見を得られて発見があって分かるわけです。創造的なことって単純労働から生まれるのかもしれない。単純なことを突き詰めていくことによって、深い洞察に結びつくはずなのに、すべてを機械に任せて人間らしい創造的なことができるかっていったらできないわけですよ。もともと芸術の才能がある一部の人は別かもしれませんが。僕は便利になることに本質的には積極的な意味はないと思っています。便利になっても、ひとりひとりの能力や生き方、楽しさを考えたらいいことって何にもない気がします。だから使いたくないなって思うんです。GPSを使って北極に行ったって自分の頭を使わずにただ歩くだけですからね。面白くなくなっちゃう。

――あえて聞きますが、その考え方は探検家として? それとも角幡唯介として?

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角幡 個人としてですよ。書いているからそういうことに気づくというのはあるかもしれません。日本でもそういうのをなるべく使いたくないんです。森の中で一人暮らしでもしない限り完全にオフにはできないですけど。なるべく自分の能力、知覚する力を衰えさせたくないなという気はします。

©角幡唯介

――今の若者は省いて生きることに対し逆らえないところもあると思います。

角幡 それが当たり前になりすぎると疑問をもつ機会すら奪われますからね。

――これは角幡唯介の生き方であると。

角幡 生き方ってほど大げさなものじゃないですが、自分だけは最低限のラインだけは守って全部は流されないようにしないとって思います。それに他人に変わって欲しいということではありません。単純に言いたいこと。行動することとか冒険や探検はある種の社会批評だと思っています。読んだ人が何かに気づくことがある。そこに意味があるのではないでしょうか。

――角幡さんは、そのプロセスを踏む行為が楽しいと思うわけですよね。

角幡 そうです。自分が手さぐりで進んで行って新しいことを発見したりテーマが見つかることがある。それは楽しいですよね。『極夜行前』の旅が今の僕に大きくつながっていると言えます。