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特集観る将棋、読む将棋

2019/06/01

――関東から関西のご自宅に戻られた、その日の夜なんですよね?

「ええ。でも基本的に、大事な対局を負けたりとか……いろんなこと、今までありましたけど、ずーっと将棋が手につかないっていうことはなくてですね。僕はすぐにまた研究してるっていう感じのことが多かったので。

 一番長く『将棋から離れたいな』と思ったのは、三段リーグの時で。1期目、次点で上がれなかったんですけど……その時は1週間くらい、後の記憶がなかった(笑)。

 たぶん、将棋盤にも触っていなかったと思います」

「薄暗い廊下で、一人で泣いてる」

 当時関東奨励会に所属していた野月浩貴八段は、最終戦で負けて順位の差で昇段を逃した時の久保の様子を、私に語ってくれたことがあった。

「久保さんが、対局場を出たところにある薄暗い廊下で、一人で泣いてる。絶対にタイトルを獲るような棋士になるって誰もが認めるあの久保さんが、まだ17歳で、来期は絶対に上がれるだろうってみんなが思ってる久保さんが、順位の差で上がれずに泣いてる……」

 野月の予想通り、久保は次の三段リーグで昇段する。

 しかしプロになる前から久保は、そんなつらい経験をしてきたのだ。将棋の神様はいつも久保をあと一歩の所まで導き、そして一番下まで叩き落とす。

©文藝春秋

――久保先生が書かれた『四段昇段の記』(「将棋世界」編)でも、前期の記憶がフラッシュバックしたという記述がたくさん現れます。

「そうですね……。

 今はもう、そういうことはなくなったんですけど。当時はまだ若かったですし、引きずることが……精神的にも鍛えていなかったので、すごくよぎるんですよね。『あの時と同じことになったらどうしよう?』というのが」

――「前後際断」という、よく揮毫されるあの言葉は、そういったご経験から意識されるようになったのでしょうか?

「前後際断を意識するようになったのは20代の後半くらいからなんですけど、タイトル挑戦まで行ってもそこで羽生さんに負けてしまって獲れない、ということが何度も続いて。

 それである人に『久保くんは階段の上まで昇るけど、一番上の鍵を持っていなかったんだ』ということを言われて……」

©白鳥士郎

久保先生にとっての「鍵」は?

――とても印象的な言葉ですね。羽生先生には4度も阻まれ、5度目の挑戦でタイトルを奪取されるわけですが……久保先生にとっての「鍵」は何だったのでしょう?

「その時には、やはり『心・技・体』が充実していないといけないと考えました。20代でしたから、体力はあります。技術は、トップレベルまで来ている自覚がありましたから……。あと鍛えるとしたら心かなと思って。

 それでまあ、色々と……護摩行に行ったりとか(笑)」

――鹿児島の最福寺までわざわざ行かれたんですよね。道に迷う多くの若手棋士に影響を与えた行動です。

「精神を集中させるほうに自分を持って行ったということですね」