なぜ花札で成長できたのか?
しかし、いくらブームだったとはいえ、なぜ花札なんかで企業として成長できたのか? 実はここに、後まで続く任天堂の企業哲学の一端が垣間見えるのだ。
簡単に言うと、房治郎は安価な商品で市場を席巻することを目指した。ただしそれは、粗製濫造するという意味ではない。
そもそも房治郎は優れた工芸師で、任天堂の花札が手間をかけた高品質なものだったとは、よく言われる。たとえばデヴィッド・シェフ『ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち』(角川書店、1993)には、彼の花札の細工について以下のように解説されている。
〈房治郎は花札の材料となる紙を、伝統的なやり方に従って、ミツマタの樹皮で作った。その樹皮を叩いてほぐし、粘土を少しまぜて重くしたものを漉いて乾燥させ、それを何枚か重ねて成型するのである。(中略)その紙を何枚も重ね合わせて、書物の表紙ぐらいの厚をもつ固い板紙を作る。そして広い板紙にこれも自分で考案した木製の印刷器を押し当ててカードの輪郭を打ち出す。次にそこヘステンシルを当て、花びらや果実で作った段糀で図柄を埋めていく。背景は赤で、草は黒。満月は塗らないで、紙の地色をそのまま残す。〉
この記述だと、たしかに手間がかかっているように見える。だが、そうとも言い切れない。というのも、前出の江橋崇『花札』によれば、最後の、赤黒の二色だけで表紙を刷るというのは、コストダウンの一環だったらしい。
〈新興の「任天堂」では、創業者の山内房次郎(引用註・房治郎)の考えで手作りでも製作工程を縮小してコストの安いものを作ることを試みた。前述した、赤色と紺色(黒色)の版木二枚で「めくりカルタ」や「かぶカルタ」の表紙の刷りを済ませてしまったのも「任天堂」であった。こうして製作した安価な花札が市場で歓迎されて「任天堂」は業界で一定のポジションを築くことができた。〉
つまり房治郎は、品質は維持しつつも、安価なものを作ろうと努力した。現代の価値観では、企業戦略としては平凡にも見える。だが花札ブームで同業他社が乱立した明治20年代に、この差別化があったからこそ、任天堂は他に抜きん出ることができた。「他と違う」ことに価値を求める同社の思想は、創業当時にはこうした形で表れていたわけだ。
博徒たちは勝負のたびに新品を使う
かつ、この安価な商品を使って、房治郎はシェア拡大を試みた。そもそも家族や友人と遊ぶ用ならカードは一組でいい。しかし博徒たちは勝負のたびに新品を使う。この需要に期待した房治郎は、安価で手頃な自社の花札を関西の賭場に広く卸すことにした。市場に自社製品を多く出回らせることで、定番ブランドの座を手中に収めていったのだ。
安くて十分な品質を持つ製品によって市場を席巻し、他社を圧倒する。こうした方針は、たとえば後に任天堂がファミコンを作った際の姿勢を思わせるものだ。つまりここに、後にまで受け継がれている任天堂の考え方があると言っていいだろう。
そして、販売戦略によるシェアの拡大は、次に同社がトランプの製造に乗り出した時、さらなる飛躍を見せることになる。
(つづく)