圧巻の投球を披露したルーキー黒木
4月18日の静岡・草薙球場。前週末のヤフオクドームでソフトバンクを相手に連勝をあげたBsは、その勢いのまま乗り込んだ草薙球場で日本ハムを相手にルーキーが圧巻の投球を披露する。今シーズンから8回を任された黒木優太である。
吉田一将から継投のバトンを受け取った黒木は、先頭の西川遥輝にヒットを浴びる。送りバント失敗でアウトを一つとった後、近藤健介を歩かせ、続くレアードを打ち取るも、なお二死一、二塁と長打が出れば逆転もあり得る場面。対するバッターは強打者・田中賢介。その局面で10球全てに直球を投じ、見事空振りの三振に切って取ったのである。元広島東洋カープの「炎のストッパー」津田恒実のような、いや2014年のセットアッパー佐藤達也が乗り移ったような、まさに圧巻の投球であった。
2016年ドラフト2位の22歳。昨年まで大学リーグで投げていた彼がBs自慢の中継ぎ陣、佐藤や吉田、塚原頌平を押しのけて見事セットアッパーの座を勝ち取ったのである。圧巻の投球も納得である。
この気迫全開のルーキー黒木。実は入団当初、意外にお茶目な一面がBsファンの間で話題になった。自他共に認める倖田來未のファンらしく選手寮にDVDを持参した事や、初任給で念願のファンクラブ入りを果たした事を嬉しそうに語っていた。スポーツ紙でそんな記事を目にした自分は「倖田來未を聞いて育った世代がもうプロ野球選手になったのか、時代の流れはやっぱり早いんだな」と感慨深いものがあったのでよく覚えている。
黒木が白球と共に青春を過ごしていた2000年代と倖田來未
avexを代表する女性シンガー倖田來未。ふと気になったので調べてみると1stシングルのリリースが2000年であった。黒木は1994年生まれであるから、彼が6歳の時には既に歌手としてデビューしていた事になる。
誰もが知っている「LOVE & HONEY」が2004年、黒木が10歳の年である。その後2005年、2006年は倖田來未のリリースラッシュで現在までにリリースしたシングルの約3分の1をこの2年に発表している。プロ野球の話題で言えば、2005年はセ・パ交流戦が始まった年で、その年の交流戦優勝チームは千葉ロッテマリーンズであった。
黒木は高校生の頃から倖田來未のファンであったと公言しているから、恐らく2010年リリースのアルバム「UNIVERSE」頃からのファンであろうか。この時期も相変わらず倖田來未はヒットを連発している。因みに2010年のセ・パ交流戦の優勝チームはオリックス・バファローズである。
何れにせよ黒木が白球と共に青春を過ごしていた2000年代、野球漬けの毎日を癒してくれたのはきっと倖田來未の楽曲の数々だったのだろう、avexさん本当にありがとう。
しかし1990年代後半から2000年代にかけて、後の黒木にとってもっとも影響を与える事になる野球界のスーパースターが活躍していた。背番号54「魂のエース」こと元ロッテの黒木知宏氏(現日本ハム投手コーチ)、通称ジョニーである。
気迫の54番・黒木の物語が幕を開ける
「魂のエース」ロッテ黒木の活躍はプロ野球ファンならば誰もが知るところであろう。特に我々Bsファンは1998年「七夕の悲劇」に当事者として立ち会っているので尚更である。9回のハービー・プリアムとの勝負はまさに「魂のエース」と呼ぶにふさわしいものであった。最後の一欠片まで魂を使い果たした背番号54がマウンドを降りる姿は強烈に印象に残っている。
Bs黒木は自ら希望してロッテ黒木と同じ背番号54番を背負う事にした。そこには、気迫を前面に押し出した投手になりたいという事、そして少しでもその名前を野球ファンの心に刻みたいという2つの理由があったという。「魂のエース」ロッテ黒木が背負った背番号をBsの若きセットアッパーが背負いプロ野球の舞台にその一歩を刻むのである。大打者相手に10球続けて直球を投じるその気迫。その資格はじゅうぶんにあると思うのだが。
これからシーズンが進むにつれ更に過酷な局面での登板も多くなるだろう。そこはプロ野球の世界。ルーキーであれ大ベテランであれ、実力あるものがその局面に挑む機会を掴むものだ。気迫を前面に押し出した投球をファンの心に刻む事で、背番号54がBs黒木の代名詞になる事を心から期待している。自信の源である直球と縦のスライダー、そして「魂のエース」ロッテ黒木の栄光を胸に、新しい背番号54「気迫のセットアッパー」黒木の物語が幕を開ける。
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※「文春野球コラム ペナントレース2017」実施中。この企画は、12人の執筆者がひいきの球団を担当し、野球コラムで戦うペナントレースです。
対戦中:VS 千葉ロッテマリーンズ(梶原紀章)
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