ボクシングの試合を活字で「観る」ことを、その興奮を私に教えてくれたのは、沢木耕太郎さんだ。沢木さんがボクシングを描いたドキュメンタリーを私はむさぼるように読んできた。その作者によるボクシング小説! 『春に散る』を一気に読んだ。四人の老いた元ボクサーが再会を果たし、ひとりの若きボクサーに技を教えていく……というストーリーなのだが、読んでいて驚くほど気持ちがいい。ボクシングだけではなくて、どのようにまっとうに生きることが可能なのか、ということを描いていて、読む気持ちよさはきっとそこからきているのだと思う。
写真集『ナスカイ』が切り取る男子たちの日常も、ものすごくまっとうだ。地震の被害により那須高原から東京へと校舎を移し、やがて閉校となる学校で、男の子たちの真剣さや不真面目さ、ふと垣間見せるあどけなさなんかが胸に残る。
犯人側からではなく、被害者側に徹底的に寄り添ったドキュメンタリー『いつかの夏』。ごくふつうの女性、と括られる中に、なんと多くのドラマがあるのだろう。後半に、事件の様相がどんどん変化していくのを固唾を呑んで読み進んだ。小説だったら嘘だと言ってしまいそうな、現実に起きたすごい奇跡が最後に描かれている。
佐藤多佳子さんの小説がすごいのは、読みはじめてすぐに、読み手の私を語り手の心境に同化させてしまうこと。『明るい夜に出かけて』もそうだ。ラジオはほとんど聴いたことがないのに、すがるように深夜ラジオとかかわり合う富山や佐古田の気持ちがわかってしまう。
『リリース』は川上未映子さんに勧められて読んだ。架空の国を舞台として進む物語のあちこちに、じつに多くの問いや問題意識がちりばめられている。差別について性差について、社会について個について考えさせられる、刺激的な読書だった。
いつも新作を心待ちにしている著者の『月の満ち欠け』。場所と時間を変えて次々と起こる不思議な現象にすっかり引きこまれ、最後の最後、巧みな構成に気がついて感動した。首を長くして待った新作なのに一気に読んでしまった。もったいないが、読みやめられなかった。
『夜の谷を行く』の重量もすごい。元連合赤軍のメンバーだった西田啓子は過去を隠してひっそりと暮らしているが、かつての仲間からの連絡を発端に、過去がどんどんふくれあがりのし掛かってくる。啓子の、目立たないようにしながら、それでもときに憤りを爆発させてしまう、ひとり暮らしの平穏な日々に生々しい現実味があって、「もうひとつの連合赤軍」というドキュメンタリーみたいだ、と興奮して読み、これも最後に衝撃を受ける。
『凜』は現在から大正三年へと小説の視点を切り替えていく。大正三年、網走の遊郭に売られた八重子と、だまされてタコ部屋送りとなった麟太郎、それぞれを取り巻く人々の物語は、やがて現在へとつながっていく。もちろんタコ部屋や遊郭とは比較にならないけれど、現在も問題視される過重労働を踏まえて、人の命の尊厳をものすごく深いところから訴えている小説。それにしてもこの作者の、肉体的苦痛の描写がすさまじい。よく(書く)痛みから逃げずにここまで書いたなあと、そんなことにも感嘆する。
『扉のかたちをした闇』は、江國香織さんと森雪之丞さんによる往復書簡のような詩集。それぞれの言葉で世界が再構築され、その世界にゆっくりと四季が巡る。交わらない二つの世界が、ときどき、それこそ闇の扉を開けるように通じ合うのが印象深かった。
エッセイ集『野良猫を尊敬した日』。私は作者側の人間――がんばれない、胆がちいさい――だと思うけれど、「いや、ここまでではない、もっとマシだ」と読みながら幾度も思い、ああ、そう思わせてくれるエッセイなのだと気づいて、作者に感謝したくなる。
01.『春に散る 上下』 沢木耕太郎 朝日新聞出版 各1600円+税
02.『ナスカイ』 梅佳代 亜紀書房 1996円+税
03.『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』 大崎善生 KADOKAWA 1600円+税
04.『明るい夜に出かけて』 佐藤多佳子 新潮社 1400円+税
05.『リリース』 古谷田奈月 光文社 1600円+税
06.『月の満ち欠け』 佐藤正午 岩波書店 1600円+税
07.『夜の谷を行く』 桐野夏生 文藝春秋 1500円+税
08.『凜』 蛭田亜紗子 講談社 1550円+税
09.『扉のかたちをした闇』 江國香織、森雪之丞 小学館 1600円+税
10.『野良猫を尊敬した日』 穂村弘 講談社 1400円+税