いまから110年前のきょう、1907(明治40)年6月7日、浪曲師の桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん)が東京・本郷座で、忠臣蔵を題材とした『義士銘々伝』を口演して評判をとり、27日間連続興行という空前の大盛況となった。
雲右衛門は、歌謡の一種である祭文語りの父について修業し、父の死後はその芸名「黒繁」を継いだ。のち浪曲(浪花節)に転向。だが、市川梅車(ばいしゃ)一座に客演中、梅車の妻で三味線弾きのお浜と駆け落ちし、関西でしばらく雌伏している。このころ壮士・宮崎滔天(とうてん)が弟子入りし、九州へ赴く。九州では滔天の人脈を通じ、当地の知識人の支援を得て、台本の提供まで受けた。『義士銘々伝』は、このとき提供された台本を雲右衛門が整理したものである。
『義士銘々伝』を演じるにあたり、雲右衛門は、伴奏も関西風の水調子(三味線の弦をゆるく張り、調子を低くしたもの)に、九州系の琵琶の手を加味して芸風を一新。1907年3月、3年ほど滞在した九州からふたたび東京へ向かった。この途上、神戸大黒座での口演を日露戦争の英雄・伊東祐亨(すけゆき)元帥が聴き、その縁で、兵庫・舞子へ避暑に来ていた有栖川宮妃に招かれる。これがきっかけで、人気に火がついたとされる。大阪、京都の口演は満員御礼となり、このあとも東海道を東京へと近づくごとに評判は高まった。ついに再上京をはたした雲右衛門は、宿の新橋から本郷座まで馬車で堂々と乗りこんだのである(朝日新聞社編『二十世紀の千人 第10巻 マージナル・ピープル』朝日新聞社)。
台本を作成して内容を高めたり、テーブル掛けで覆った机の前に立って口演するというスタイルを確立したりと、雲右衛門は、それまで低級視されてきた浪曲の社会的地位を高めるのに大きく貢献した。しかしその時代は長くは続かなかった。1916(大正5)年、肺結核のため43歳で死去。このとき多額の借金が残っていたという。ちなみに雲右衛門をその死まで看取った宮崎滔天は、孫文の中国革命にも協力した人物だ。その長男で社会運動家の宮崎龍介もまた、歌人の柳原白蓮と駆け落ちの末、結婚したことで知られる。