日本の気候は、「四季」から「三季」になってしまったのだろうか。今年は、全国各地から深刻な雪不足が伝わる記録的な暖冬だった。酷暑や集中豪雨をはじめ、年間を通じて異常気象を感じるようになった。年々、日本は“暮らしづらい国”になっていくのか。
おそらく、地球温暖化が大きく影響しているのだろう。温暖化は二酸化炭素の大量排出が要因とされる。すなわち、世界人口の激増が大きく影響しているということだ。世界人口がこのまま爆発的に増加していったならば、人類には悲劇的なシナリオしか待っていないこととなる。
人口推計の予測には大きな差異がある
しかしながら、そうと決まったわけでもなさそうだ。案外知られていないが、2050~60年頃には人口の膨張は止まり、世界の人口は減少に向かうという見解が、専門家たちの間では広く存在している。
一般的に経済や産業が発展し、教育や公衆衛生などの水準が上がるにつれて、少産へと向かうとされる。一旦出生率が低くなると、多くの人々が子どもを産まなくなり、そうした行動が拡大再生産されて一層少子化が進行する。いわゆる「低出生率の罠」が、世界の多くの地域で進むと見ているのだ。
こうした専門家たちの見立て通りならば、悲劇的シナリオは大幅な書き換えが可能だ。
だが一方で、国連の人口推計は、2050年を越えても、人口が増え続けるという見通しを示している。なぜ、予測にかくも大きな差異が生じるのか。
理由は、前提をどう置くのかによって結論が大きく異なるためだ。そこには、さまざまな思惑が入り込み易いからである。
「人口推計は、経済見通しなどとは違って、唯一、予測可能である」とよく言われる。地球に既に生まれ落ちた人数は確定しているのだから、それはその通りだ。しかし、ひとりの女性が未来において何人の子どもを産むかどうかは未知数である。つまり、出生率という変数をどう考えるかで、将来の人口予測はいかようにも変えられてしまうのだ。
政権の思惑により高く見積もられてきた出生率の未来予測
人口推計は通常、3つのパターンで提示される。出生率を高めに見積もった高位推計から、無難な見通しを前提とした中位推計、低めに見積もった低位推計だ。過去の実績をみると、低位推計が実際の値に近かった、というケースが多い。
日本においても、出生率の未来予測は高めに見積もられがちだった。なぜなら、年金財源の将来見通しを計算する際の前提値の1つとして用いられてきたからだ。そこには、年金の支え手となる若者が増え続けるという楽観的な数字をもとに、年金制度の安定をアピールしたい時々の政権の思惑があり、官僚たちによる“政治的配慮”があった。同じように国連による世界推計にも、たとえば貧困問題への注目を集めたい、などの思惑があったのではないか。
人口推計の見方については、ほかにも注意すべき点がある。アフリカなどがそうなのだが、統計の基となるデータ収集がやや粗い国や地域もある。以上の理由から、国連の人口推計はズレが大きいともされてきた。
こうした要素を織り込んだうえで、人口問題の専門家たちは、国連の予想より早いスピードで世界の少子化が進む、と結論づけているのだ。ただし、現実の世界には、さまざまな流動的要素が存在するため、果たして理論通りに進むのだろうかという疑問は残る。