文春オンライン

岩波書店で初の直木賞 担当編集者が明かす“奇跡”までの舞台裏

岩波書店 坂本政謙さん

note

「とにかくエッセイは岩波書店でやるから」

―― 『月の満ち欠け』で、書き下ろしの「公約」が果たされるまで、佐藤正午さんと坂本さんはエッセイのお仕事を続けられてきたんですね。

 競輪を題材にした短編集『きみは誤解している』(2000年)が、岩波書店で最初に出した正午さんの本なんです。「本になってない原稿ってありませんか? 短編とか」と言ったら、「いや、ないことはないけど」と見せていただいたのが5本の短編でした。コンビニでコピーさせてもらって、佐世保からの帰りの特急の中で読んだ。その5本に書き下ろしを1本書いていただいて1冊にしました。思いのほか、これが売れたんです。

『ありのすさび』の造本は「小口折りにして、並製のアンカットに。表紙には空(から)押しを」 ©杉山秀樹/文藝春秋

――“勝てば官軍”ではないですが……。

ADVERTISEMENT

 はい(笑)。売れれば社内的にも風通しがよくなるというか、企画も通りやすくなるのはどこの会社でも一緒だと思うんです。その後、改めて佐世保へ伺ったとき、段ボールの中に大きいデパートの袋のようなものが5袋ほど入っているのを見せていただいたんです。その袋の中には、ゲラではなく文芸誌に掲載されたページをそのままビリビリッと破ったものが、放り込んであったんですね。それらを整理して最初に作ったエッセイ集が『ありのすさび』(2001年)です。

 これはかなり評判がよかったんです。正午さんはこの本の“古くさい造本”も気に入ってくださって、このあたりから僕との仕事を信頼してくださるようになったのではないかと思います。「とにかくエッセイは、岩波書店でやるから」とおっしゃってくださった。

©杉山秀樹/文藝春秋

「仕事場の中へ伺ったことはありませんね」

―― 普段、佐藤さんとのやり取りは、基本的にメールと電話なんでしょうか。

 LINEです(笑)。正午さんがスマホを持ち始めた頃で、「メールが使いづらい。LINEやってないの?」って。僕は正午さんに言われてLINEを始めたんです。スタンプや絵文字も入ってきますよ。

―― どれぐらいの頻度で、坂本さんは佐藤さんに会いに佐世保へ行かれるんですか?

 最低でも、年に2回ぐらいは行っていたんじゃないですかね。つまり、何かしら仕事を作ってお邪魔するという風なことをしていたので。社内的に見ると「しょっちゅう佐世保に行って遊んでいていいな、お前は」みたいな(笑)。今回の受賞を受けて「やっと佐世保に行っていた意味がわかったよ」って思っている社員もいるでしょう。

 ただ、これまでに小説を執筆されている仕事場の中へ伺ったことはありませんね。

©杉山秀樹/文藝春秋

―― 坂本さんが『月の満ち欠け』のプルーフ(書店や関係者に配られる見本)とともに送られた手紙には「小社から、このようなかたちでの正午さんの作品が刊行されることは、おそらくありません。『最初で最後』になるでしょう」と綴られています。

 正午さんは、小説はひとつのものに取り掛かると、他のものには手をつけられないストイックで不器用な方なので。すでに順番待ちをしている版元がいくつかあって、岩波書店が仮に4番目としたって10数年かかるわけですよね。今年62歳になられる正午さんが70いくつになって、作品を書かれるのでしょうか。そもそもその頃になったら、僕はもう会社にいない……? そうなると、最初で最後だなということは分かるんです。受賞したんですから次作も岩波で、とお願いしても無理ですから。あきらめています(苦笑)。

 最終的には書き下ろし作品を出す。これが二人の約束でした。この歳月を待つに値する“贈り物”のような作品になったと、僕は思っています。

月の満ち欠け

佐藤 正午(著)

岩波書店
2017年4月6日 発売

購入する
岩波書店で初の直木賞 担当編集者が明かす“奇跡”までの舞台裏

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー