読売の22日付朝刊も「13匁」。その後、各紙の公判報道などでも具体的な青酸カリの分量の記述はない。模倣犯や自殺防止のためだろうか。「警視庁史昭和前編」は戦後の刊行だが、やはり量は書いていない。
ただ、初公判で鵜野洲は、裁判長に「青酸カリの残りはどうした?」と聞かれ、「紙に包んでがまぐちに入れました」と供述。「どうするつもりだったのか」と問われ、「捕まったら、それをのんで死ぬつもりでした」と答えている。全量は使わなかったようだ。
東朝の2グラムで致死量の約13倍、東日、読売の13匁ならなんと325倍。どちらにしろ、それだけの量を入れられたら、ひとたまりもないだろう。10銭は2017年換算で約200円。知られていなかったとはいえ、危険な毒物をいかに安価で簡単に入手できたか、驚くほどだ。
社会に波紋を広げた事件の衝撃
事件は社会に大きな衝撃を与えた。11月23日付東日朝刊「家庭と趣味」欄は「毒薬も 性質を知れば 中毒せずにすむ」「『青酸カリ事件』が教へ(え)た 生活に大切な常識」という記事を載せた。
事件当時、増子校長の柳北小学校の4年生で戦後、東京新聞の文化部記者や武蔵野女子大教授などを務めた槌田満文氏は「青酸カリ事件の思い出」=「文藝論叢(25)」所収=にこう書いている。「昆虫標本の作製などにも使われていた青酸カリは、薬局や文房具店で比較的容易に入手できる時代だったから、その威力が分かると、たちまち青酸カリ自殺が流行した」。
翌1936年1月10日付読売朝刊には「昨年11月、浅草の校長毒殺事件が起こって以来というもの、猫も杓子も『自殺は青酸カリ……』ということに相場が決まってしまった」と記述。榊原昭二「昭和語 60年世相史」の「昭和11年の世相・風俗」の欄にも「東京市内では青酸カリの自殺が相次いだ」とある。1936年に出版された「世田三郎風刺詩集・百万人の哄笑」には「青酸カリ時代」という風刺詩も収められている。
“流行薬自殺”で青酸カリだとわかった
その流行は事件の2年後、1936年に脱稿し、翌年発表された永井荷風の名作「濹東綺譚」にも登場する。「玉ノ井」の私娼窟で主人公の男と氷白玉を食べていた娼婦お雪に、通りがかりの素見客(ひやかし)が声をかける。「よう、ねえさん、御馳走さま。」「一つあげよう。口をおあき。」「青酸加里か。命が惜しいや。」「文無しのくせに、聞いてあきれらァ。」……。
荷風は1936年ごろから、玉ノ井の取材の入り口として浅草を頻繁に訪れるようになる。当然、事件のことも聞いていたはず。「青酸カリ事件の思い出」は、初めて「濹東綺譚」を読んだとき、この場面に「ハッとした」と記している。「『青酸加里』は『濹東綺譚』に見られるような流行語にまでなったのである」。小沢信男「犯罪紳士録」は「模倣者の続出に、新聞は毒物名を規制して“流行薬自殺”というふうに書いた。ははァ青酸カリだな、と読者はこれを読んだ」と書いている。