戦時中、民間人に配られた「自決用青酸カリ」
そして、青酸カリはその後の時代の変化の中で“無残”を表す物質になっていく。日中全面戦争から太平洋戦争に拡大した1941年の1月、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」で知られる「戦陣訓」が制定される。
「降伏して敵の捕虜になるよりは、むしろ死を選べ」と兵士に命じる内容で、その精神は国民にも求められていた。絶望的な戦場での兵士、戦闘に耐えない傷病兵や従軍看護婦、満州(現中国東北部)、内モンゴル、南洋諸島などに開拓その他で入った民間人らには、戦局が悪化した場合の自決用に青酸カリが渡された。
「私たちは密林の岩間で青酸カリを分け合った」
1944年7月6日、北マリアナ諸島サイパン島ではアメリカ軍の攻撃で日本軍が壊滅状態となり、約3000人の民間人がジャングルと峡谷に追い詰められていた。
「私たちは密林の下の岩間に集まり、工場出発以来携行していた瓶の封ろうを切って、青酸カリを急いで分け合った」「その時、『俺もゆく』と言って、兵頭課長が何かを口に入れ、補給の水のある時以外は絶対に口にしなかった水筒の水を仰向いてゴクゴクと飲み、その場にドッとうつぶせに倒れた。瞬間、私の脳裏を白い青酸カリの塊がかすめたと同時に、ガーンと目先が真っ暗になるような衝撃を受けた」。週刊朝日編「父の戦記」に収録された大川良助という生存者の「青酸カリで自決した人々」という文章だ。
歌人の中川佐和子さんは「父の青酸カリ」というエッセー(「短歌(44)」所収)で、兵士として南方から引き揚げ、戦後50年の年に亡くなった父親のことを書いている。
「父の遺品の柳行李(やなぎごうり)から、母のみが知っていた、かつて兵士の時に配られたくすんだ茶色の一包の青酸カリが出てきた。なぜ半世紀も青酸カリを持っていたのか。父から聞くことはもうできない。しかし、父の中では、戦争がまさにまだ終わっていなかったことを私は知った」。文章には一首が添えられている。
半世紀青酸カリを捨てざりし父に兵士の日が帯電す
戦後、使われずに残った青酸カリが大量に国内に持ち込まれ、社会の混乱の中、自殺や犯罪に使われる。代表的な例が、銀行員ら12人が殺害された1948年1月の「帝銀事件」だ。
何が犯人を悪魔にしたのか
11月22日付読売朝刊には事件関連の写真が数多く載ったが、その1枚は、柳北小の教諭らが事件解決を祝して乾杯している構図。カメラマンの注文に応じたのかもしれないが「不謹慎だ」と批判が出た。
その後も各新聞は競って続報を載せる。11月23日付東朝朝刊は「探偵小説から 生まれた殺人鬼」の見出し。