「鵜野洲は府立七中時代から探偵小説を愛読し、自ら探偵小説を創作したこともある。各種の探偵小説を漁り読むうち、大胆不敵な彼の脳裏には、犯罪に対する非常な興味が募り、知らず知らずの間に、犯罪を敢行する場合の心構えとして、毒殺に用いる薬品の研究が進められた」「彼が殺人を実行するのに直接手引きとなったのは、主に江戸川乱歩の小説であったと申し立てている」。
同じ日付の読売は「何が彼を 悪魔にしたか “金”が驅(駆)り立てる 怪奇・毒薬の妄念」の見出しで「なぜ、このような犯行をあえてしたか」、鵜野洲の背景を分析している。「歓楽境の浅草のみが持つ特殊な環境」「探偵小説への耽溺」に加えて、「子どもの愛に溺れたひどい勝気の女」である母親が支配する家庭が「債鬼に追い詰められた彼をついに悪魔の道を歩かしめたものではなかろうか?」と書いた。
11月26日付夕刊では東朝と東日が、増子校長の死が謎のまま終われば、鵜野洲は浅草区内の他の7つの小学校長の毒殺も狙うつもりだったと報道。
さらに東朝は、鵜野洲が毒薬の研究をしていることを知った恩師の千束小校長が事件の約2カ月前、「あるいは一家皆殺しという大それたことをやりかねまじき男のことだから」と鵜野洲の母を呼んで注意したこと、以後、気をつけていた鵜野洲の妻と母が家の中で2回にわたって亜ヒ酸とみられる白い粉末を発見して捨てたことを報じた。鵜野洲は気づいて妻を激しくなじり、家族はそれ以上何もしなかった。
「うまくごまかせると思いました」公判で語られた鵜野洲の言葉
26日には増子校長の葬儀が行われ、柳北小学校の児童らが参列。27日付夕刊で東朝は2000人、読売は3000人が参列したといずれも写真入りで伝えた。
東京刑事地方裁判所での初公判は翌1936年1月24日。「早朝から傍聴者が詰め掛け、120枚の傍聴券は飛ぶようになくなって、あぶれた者は廊下から去りもやらぬというありさま」(25日付東朝夕刊)。
強盗殺人と殺人未遂に問われた鵜野洲は犯行を全面的に認め、「私は当時、うまくごまかせると思いました。しかし、私には命がけで遊ぶという考えはなかったのですが、こうなるのも全くいろいろの事情からです。家の生活、子どもの耳の病気など、いくつものことが重なったためです」と述べた(同紙)。さらに「あんなに早く死ぬとは思いませんでした」と陳述。検察側は「自殺に心中に、いわゆる青酸カリ時代を現出した責任の大半は被告にある」として死刑を求刑した(25日付東朝朝刊)。
同じ日付の読売は鵜野洲のことを「ちょっと薄笑いを浮かべながら述べるところは、その平然さにかえってすごさを覚えさせる」と表現。3回にわたって殺害を企てた未遂事件について「ユーモアたっぷりの口調で述べるので、傍聴席にも笑声がわくといった、恐ろしい毒殺魔の公判とはおよそ懸け離れた風景だ」と書いた。
1週間後の1月31日の判決は「(強盗殺人罪の量刑は)死刑か無期懲役かの2つであるが、この事件は相当悪性であり、悔悟だけでは無期懲役には駄目だ」と求刑通り、死刑を言い渡した。鵜野洲の最後の言葉は「増子先生の遺族の方々の将来をよろしくお願いします」だった(2月1日付東朝夕刊)。控訴したが同年4月7日の二審判決も死刑。大審院への上告も同年8月3日に棄却された。