もう半世紀近く前のことになるだろうか。大阪難波、高島屋の横を抜けると、南海ホークスが本拠地にしていた大阪球場のゲートが見えた。球場の敷地に入って右手奥の駐車場に板チョコみたいに平べったいリンカーンコンチネンタルが停まっているのがみえると「ノムさん今日も来ているな」と思ったものだ。
「陰気そのもの」だった兼任監督時代
野村克也が兼任監督を引き受けた1970年以降、南海ホークスは冴えなかった。野村在任中の8年のリーグ優勝は1973年の1年だけ、Aクラス6回はさすがではあったが、無敵の南海は過去のものとなった。
南海はドンこと鶴岡一人監督の剛腕で、全国の有望選手をかき集めて黄金時代を築いてきた。鶴岡はボストンバッグいっぱいに札束を詰めて、試合が終わると夜行列車で各地を回って選手を口説いていた。1965年のドラフト導入によって、それが不可能になった。野村克也はそんな時代に南海ホークスを率いたのだ。
南海の兼任監督時代の野村克也は「陰気」そのものだった。後年、訥弁とはいえ名解説者として一世を風靡するとは想像できなかった。
人来ぬ大阪球場で、一塁側スタンドのホークスファンは好き放題にやじっていた。
「監督、お前のチームの弱点教えたろかー、キャッチャーや!」
プレイングマネージャーとしてマスクを被っていた野村は陰気な目でスタンドを見上げていたものだ。
荒み切っていた現役最終盤
サッチーこと野村沙知代が絡んだ公私混同事件で南海を追われたのは1977年。野村はロッテ、西武とチームを転々とした。
似合っているとは言い難い西武ライオンズのユニフォームの野村克也に、テレビマンユニオンの敏腕プロデューサーだった萩元晴彦が
「野村さん、僕はあなたに似ていると言われているんですが、どうですかね」
とマイクを向けたときに野村は顔を背けて
「けっ」
といっただけだった。40歳を過ぎ、球界の孤児同然となった野村克也の心は荒み切っていたのだろう。
TBS解説者2年で辞めた「気難しい人」
野村克也は引退翌年には、TBSの解説者になるが、2年でやめる。
局の人間に
「野村さん、たかが野球ですから気楽にいきましょう」
と言われたことにカチンときたからだという。気難しい人だったのだ。