事件の発端・森脇将光氏証言台に立つ
2月16日、東京地検特捜部は自由党副幹事長の有田二郎・衆院議員の逮捕許諾を請求。ついに疑惑は政界に及んだ。壷井・運輸省官房長の自供から、名村造船が壷井に贈賄する橋渡しをしたとされた。野党が許諾を決めたため、政権は対応に苦慮。ようやく23日になって、衆議院は紛糾のすえ「3月3日まで」という期限付きで逮捕を許諾した。
2月19日には、衆院決算委員会が、捜査の糸口をつくった森脇を参考人として招致。森脇の証言は核心には触れず、森脇メモも公表されなかったが、その存在は社会に衝撃を与えた。
「森脇将光氏証言台に立つ」(毎日)などと報じた2月19日付夕刊各紙には、6年前に発覚した昭電疑獄事件で芦田均・元首相らの控訴審が始まった記事が載っているほか、このころには、大衆投資家から金を集めて理事長が逮捕された保全経済会事件のニュースが連日のように紙面をにぎわせていた。「政治とカネ」の問題が日常的に突出した時代といえる。
2月20日付朝刊も「大波紋描く森脇氏答弁 重大内容、メモで提出」(朝日)、「造船疑獄にまた波紋 宴会取引など暴露」(読売)などと大々的に報道。同じ日、事態を重視した緒方竹虎・副総理は吉田首相と会って対応を協議している。このころ、吉田首相は体調を理由に神奈川県・大磯の私邸にいることが多く、実務の多くは緒方副総理が担っていた。
「血税九百億でバクチ 海運界の乱脈ぶり」
第5次吉田内閣のこの時期は政治全体が不安定だった。長期政権からくる民心の離反に加えて、前年の「バカヤロー解散」による衆院選で吉田自由党は過半数割れ。分派自由党から鳩山らが復党したものの、残った三木武吉(のち保守合同の立役者)らの日本自由党や、重光葵(戦前の外相でA級戦犯)が総裁になった改進党があり、左派、右派の社会党、日本共産党などもあった。政権運営に苦慮する中で、緒方副総理らを中心に保守合同を目指す動きが表面化していた。
加えて、衆院決算委員会の田中彰治・委員長は「政界の爆弾男」「マッチポンプ」と呼ばれた人物。このときも吉田自由党の一員でありながら、独自の運営で、のちに自由党を除名される。職権を利用して疑惑を追及する姿勢を見せつつ、裏で脅迫などで金品をせしめていたとされ、1966年の「黒い霧事件」で逮捕されて失脚する。