同書によれば、国家的な保護助成政策の下、日清・日露戦争で急激に発展。日本は船腹量で世界第3位になるなど、有数の海運国に。そして戦争――。商船は戦争用に転用されるなどした結果、壊滅的な打撃を受け、開戦時の約2700隻、計約630万トンから敗戦時は約800隻、計約130万トンに激減した。
政府は復興を図り、大規模造船に長期低利の財政資金を投入する「計画造船」を1947年にスタートさせる。海運会社と造船会社のチームが申請した内容を審査。船舶公団や復興金融公庫(のちの日本開発銀行)が建造資金を融資した。その割り当てをめぐって熾烈な競争が繰り広げられた。
1月31日付毎日朝刊は「割当獲得への狭い門をくぐりぬけるには素手では不可能だというのが業界の定説になっている」と書いている。当時は船舶の建造価格の1%程度がリベートとして造船会社から海運会社に戻されるのが常識で、それが個人的な利得を図った浮き貸しと政・官界への工作に使われたとみられた。
2月9日付読売朝刊は、リベートは特別背任罪を構成するとの東京地検の見方を伝えた。「汚職の構造」は日立造船の場合を挙げて構図を説明している。
日立造船→(リベート)山下汽船→(浮き貸し、手形)猪股功→(借り入れ、詐欺)森脇将光→(告訴)東京地検→(捜査)猪股功→(手形)山下汽船→(運動、ワイロ)→政・官界
造船・海運業と国との間で生まれた「カネをめぐるかけひき」
もう1つ、事件と直接関連があったのは建造費の利子補給制度だった。朝鮮戦争の「特需」もあって造船、海運は一時活況となったが、朝鮮戦争停戦後の不況で一転、経営難に。海運・造船業救済のため、政府は事件前年の1953年1月、戦前一度制定した、船舶建造で受けた融資の利子を国が補助する「外航船舶建造融資利子補給法」を復活させる。
それでも業界はさらに利子の引き下げを狙い、政治家に働きかける。1953年7月28日付朝日朝刊経済面の左端には次のようなベタ記事が載っている。
利子補給法修正可決 外航船舶の建造融資外航船舶建造融資利子補給法案は27日の衆院運輸委員会で自、改、分自3党の修正案に次の付帯条件をつけて可決され、28日の本会議に上程されることになった。
「自」は当時の吉田茂首相率いる自由党で「吉自」とも略し、「改」は野党の改進党のこと。「分自」は、吉田首相を批判して自由党を離脱した鳩山一郎(のち首相)らが結成した「分派(鳩山)自由党」で「鳩自」とも呼んだ。
修正案は、開発銀行の利息を7分5厘から3分5厘に、市中銀行の利息を1割1分から5分に引き下げる内容。改正案は国会の混乱が続く中、右派、左派に分裂していた社会党などの反対に遭いながらも、7月28日の衆院本会議と8月3日の参院本会議で可決され成立した。
参院本会議で当時労働者農民党所属の木村禧八郎議員(のち社会党)は「政府原案で13億円だった利子補給を、3派修正案で一挙に12倍以上の167億円に増やす法案で、過程に多大の疑惑が持たれる。これはあとで重大な問題を起すのではないか」と、のちの事件を予見したような反対意見を述べている。
1954年2月11日付読売朝刊は「250億円タダ取り 海運界の意向ででっち上げ?」の見出しで、同法によって海運業界に16年間、計約253億円が利子補給の名目で与えられると説明。「驚くほどの補給金の増額」が実現される間に、業界からの政党献金が激増したと批判的に伝えた。