汚職を含め「政治とカネ」の問題はいまも絶えず起きているが、「疑獄」という言葉は聞かれなくなった。「[有罪か無罪かの判断が微妙に分かれるような事柄を扱う裁判事件の意](大臣などの)高官が関係する、大がかりな汚職事件。」と「新明解国語辞典」にはある。
今回の造船疑獄は、ロッキード事件(1976年)が起きるまで「戦後最大の疑獄」と言われた1954(昭和29)年の事件。戦争で崩壊した海運と造船の復興という大きな流れの中での出来事だった。ドラマに登場するのは、のちの首相たちや白樺派の文人政治家、政界の「マッチポンプ」、のちの経団連会長、スキャンダラスな「高利貸し」、美人芸者ら“オールスターキャスト”。
しかし、捜査が頂点に達しようとしたとき、法務大臣が検察官を指揮して捜査を止めるという“前代未聞”の指揮権発動で逮捕は見送りに。捜査は頓挫した。その後も大型汚職が起きるたびに取り沙汰される指揮権発動。一体誰がどのような目的で考えたのか。そして、事件からはどんな教訓が読み取れるのか――。
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始まりはひとりの男のメモだった
昔の日本には怪人物と呼べる人間が存在した。森脇将光はその1人だろう。いまでこそあまり知られていないが、「高利貸し、土地分譲、海外投資などで財を成し、戦後は一時出版業などにも手を出し、1948年度の全国長者番付のナンバーワンにランクされて世間をアッと言わせた」(「別冊一億人の昭和史 昭和史事典」)。1965年の「吹原産業事件」で有罪となったが、恩赦になり、1991年、91歳で亡くなった。調査能力が高く、いろいろな事件で彼の書いた「森脇メモ」が登場。この造船疑獄も始まりはそれからだった。
「この1月下旬、森脇将光手記『奇怪なる一億財宝の行方』と題して100ページにわたるガリ版刷りパンフレットが各新聞、通信社宛てに送られてきた。いわゆる“森脇怪文書”がそれである」。「週刊サンケイ」1954年2月21日号は「裸にされた金融王 造船疑獄の導火線」という見出しの記事を載せた。その中の「私はかくて騙された!」という森脇の手記などによれば、いきさつはこうだった――。
長者番付1位になったのと同時に巨額の税金滞納が話題になり、表面に出られなくなった森脇は、1951年、志賀米平という人物を名目上の社長にして東京・日本橋に「江戸橋商事」を設立。金融業を再開したが、1952年、公正証書原本不実記載などの容疑で警視庁に検挙された。処分保留で釈放されるまでの20日余りの間に、保有していた2億円相当の手形と株券を志賀らに横取りされたことが判明した。