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日本の子どもたちの実用文読解力

 文学などいらない、という意見もあるだろう。今必要なのはグローバル社会を生き抜くためのリテラシーでありコミュニケーション能力であると。そもそも今回の入試と指導要領の大改革は、いわゆるPISAショックと、人間がAIに負ける日が来るというAIショックとを発端とするものだ。

 PISAとはOECD参加国で行われる共通テストで、日本の子どもたちの実用文読解の記述式問題の正答率が著しく低かった。その対策としての入試と指導要領の改革という面がまずある。

 この露骨な対策を続ければ、たしかにPISAの点は上がるだろう。しかし、そもそもPISAで得点の高い国が、学校でそのための対策の授業をしているなど聞いたことがない。ヨーロッパ、たとえばフィンランドの学校では、文学どころか絵画をすら「読む」対象として授業で扱っている。

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 いっぽう日本のこの度の改革は、文学を排し「実用的」な文章を一気に教育の中心に据えようとするものだ。これが問題だというのは、その裏に、文学は「実用的」でも「論理的」でもないとする誤解が潜んでいるからだ。フィンランドの国語の授業で美術作品の読解が行われるのは、絵画にも論理的な分析が可能であり、それが感性と結びつくことこそが生きていく上で役に立つという信念があるからにほかならない。

「読む」には文法以外の知識も必要である

 AIショックによって「読解力」の危機を煽る者たちも同じ誤謬を犯している。

 オックスフォード大が、10年後に今ある702の職種のうち半数がAIに取って代わられるとのレポートを出し、世界中を騒がせたことがあったが、それは2013年のことで、8年経ってもそれほど大きな変化は見られない。たとえば人間のバーテンダーはいなくなるとされたが、人はただ完璧に調合された酒を求めてバーに通うのではない。バーテンダーという人間そのものを味わいにいくのだ。そういう人間的な要素を抜きにした「実用」ばかりを煽っても意味はない。

©️iStock.com

 また、中学生の多くが、文学どころか他教科の教科書レベルの文章が読めていない、これではAIの読解力に負けてしまうという報告が日本の数学者によってなされ、世間の耳目を集めた。文学以前に平易な実用文が読めなければ、AIが急速に発展する将来に生きていけなくなる、と。

 たしかにそこで示された、文脈を排した短文を文法的に誤読した生徒は意想外に多かったが、「読む」ということには文法知識以外に、語彙や書かれていることの背景知識も関わってくる。実際の生活の場面で何かを読むときには、これらの要素をバラバラに切り離すことはできない。文法的な読解力だけを鍛えたいのであれば、たとえば英語の学習で能動態を受動態に書き換えるような作業を日本語でも積めば、かなりの効果を上げることができるだろう。