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コロナ後の世界』(文藝春秋)

 僕たちはずいぶん長い間、ふつうの市民が隣人を告発したり、社会から排除することに加担するという風景を見ていません。僕たちの親や教師たちの世代は、戦中派ですから、人間がどれくらい暴力的になったり残虐になったりできるか、戦地で実際に見て知っていました。ふだんは気のいいおじさんや内気なお兄ちゃんが、暴力をふるうことについて大義名分が立つと平然と略奪し、焼き払い、殺し、強姦するということを目の当たりにしてきた。その男たちもまた戦争が終わると、ふつうの顔に戻って、平凡な市民になった。でも、心の中には底知れない邪悪さや暴力性を抱え込んでいる。それを見てきた戦中派は「人間は怖い」ということが骨身にしみていたと思います。だから、ふつうの人たちが自分の攻撃性をリリースする口実を与えないように、法律や良識や「世間の目」や「お天道さま」がいつも見張っているという仕組みを周到に整えてきた。僕たち戦後世代は、幼い頃は、そういう仕組みをずいぶん微温的で偽善的なものだと思ってみくびっていましたけれど、それは僕たちが間違っていたと思います。

 僕自身は戦中派に比べるとはるかにスケールは小さいですけれど、学園紛争の時代に、「革命的正義を実行する」という大義名分があると、見も知らぬ他党派の学生の頭に鉄パイプを振り下ろしたり、石で人の頭を殴りつけることができる人間が想像よりはるかにたくさんいることを知りました。

自分の攻撃性や暴力性に対して鈍感な人間が一番怖い

 今回のコロナは戦争の時とも学園紛争の時とも違いますけれど、「今なら自分のふだんは抑制されている攻撃性を解放しても、大義名分が立つ」というふうに感じた人たちが出現してきたことは間違いありません。

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 SNSでの差別的な書き込みとか罵倒とか、ほんとうに目を覆わんばかりですけれども、たぶん書いている人たちは「別に身体的な危害は加えてないからいいじゃないか。ただの言葉なんだから」と言い訳するつもりでしょう。でも、自分の暴力性を他者に向けてリリースすることに「寛大」な人間は、条件さえ揃えば、実際に人を殺すような人間かも知れないと思っておいた方がいい。自分の攻撃性や暴力性に対して鈍感な人間が一番怖いんです。実際に、SNSで執拗な攻撃を受けて、精神的に傷ついて、重篤な病気になる人はいるわけですから、「言葉の暴力」と「身体的暴力」の間に境界線なんかありません。地続きなんです。感染拡大の過程で、「感染抑制に協力しない人間はいくら攻撃してもいい」という空気をメディアを通じて醸成した人たちは、政治家や言論人も、人間性の暗部についてあまりに想像力が足りないと思います。

 コロナ禍による社会不安を背景に、アメリカではこの1年間で、殺人件数が前年比の30%も増加したそうです。外に出て人と会えなくなったとか、雇用を失ったとか、そういうような社会条件の変化だけで、人間は簡単に攻撃的になることができる。人間というのはそういう「危険な生き物」だということをよくよく勘定に入れて、社会制度を設計することがコロナ後の大きな課題だと思います。