いつまでたってもデビューできない理由を知りたかった
――ボツが続いた頃は、どういう気持ちでしたか?
桜木 “ぬか床”の底でどうすればいいのかわからず、途方に暮れていました。自分が本当にダメなのかどうか知りたかったし、いつまでたってもデビューできない理由を知りたかったけれど、誰かに聞けるわけでなし、中途半端な状態でしたよね。
告白すると、あんまりつらいんで、すばる文学賞に応募してしまったことがあるの。誰も何も言ってくれず、どんな勉強をすればいいのかさえわからなくて、つらくてつらくて、応募しちゃった。そしたら最終選考に残ったんですよ。
「すばる」編集部のKさんから電話をもらって、後で問題になってはいけないと思い「じつはオール讀物新人賞をいただいたことがあります」と打ち明けた。そしたら翌日、また連絡があって、「会議にかけた結果、今回の最終候補は取り消しにします」と。でも、その時、Kさんが電話口で「あなた、絶対に小説をやめないでくださいね」と言ってくれたんです。そこで私も少し冷静になれて、そうか、「すばる」の最終選考に残れたんだし、集英社の編集者が「やめないで」って言うんだから、もう少し頑張ってみるかと思いました。
同じ頃、文春の羽鳥さんから「写経しなさい」とアドバイスをもらいました。髙樹のぶ子さんの『透光の樹』がとにかくすばらしいからと。約300枚の短めの長編小説なのですけど、白山を舞台に男と女の出会いと別れ、土地の空気、生と死がすべて描かれている。「1冊写したら何かがわかる」と言われて、午前中は自分の原稿を書き、午後は『透光の樹』を書き写すということを続けてみました。2004年、一念発起して初めての長編にチャレンジしていた頃のことで、筆写することが「300枚を書くトレーニングになるよ」と思ってくださっての助言でした。この年に仕上げた長編「霧灯」が、松本清張賞の最終候補に残るんですけれど……。
――補足しますと、松本清張賞(主催・日本文学振興会)はプロアマ問わずの公募の賞で、オール讀物新人賞を受賞したけれどもなかなか本を出せない方が、長編を書いて清張賞から再デビューを期す、という流れが当時あったんですよね。
桜木 清張賞の候補に残った時、同じ北海道出身の文春の編集者である明円さんがわざわざ留萌まで訪ねてきてくれて、「僕は桜木さんの作品が好きです」と励ましてくれたのは嬉しかった。結局、清張賞も落っこちて、つらいのはつらかったんですけれど、時々叱咤してくれる編集さんの言葉、それから羽鳥さんが毎年送ってくれる文春のカレンダーと手帖とが心の支えになっていました。小説がボツで泣くことだけはすまいと思ってたけど、カレンダーと手帖が届くたび「私、まだ忘れられてない」と、こっそり隠れて泣いてたんですよ。
――先が見えない中、担当者もずいぶん替わりましたね。
桜木 私、歴代担当者の数だけは多いの(笑)。クルクル替わるんで名前を覚えられないんです。正直、すごく怖かったですよ。私があまりにダメで、付き合いきれないんだろうな、いつか担当がいなくなるんだろうなと思ってました。
――原稿をもらっても載せられないことが続くと、担当者も気詰まりで、他の編集者ならうまくやれるかもと思ってしまうんですよ。私が桜木さんの担当になったのは新人賞から4年が過ぎた2006年の春でした。その時、出版部の部長になっていた明円に呼ばれ、「必ず桜木さんのデビュー単行本を出すように」と言われたんです。引き継ぎで前任者から段ボール箱を渡されたのですが、箱の中に中編、短編あわせて30本以上の桜木さんのボツ原稿が入っていて、ビックリしました。