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 ここで「例の件」とあるのは、週刊文春が1月に報じた記事のことだ。記事では、フィクションとはいえ現実に起きた事件を描きながら、当事者である赤木雅子さんの意向を無視して制作されたことを伝え、そこに介在した東京新聞の望月記者にも責任があると指摘している。

 この記事を補足する形で、私は日刊SPA!に「ドラマ『新聞記者』で『東京新聞』望月記者を“舞い上がらせた”私たちの責任」という記事を出した。

 こういう指摘に望月記者がどのように釈明、あるいは反論するのだろうという講演の参加者の期待は肩透かしに終わった。まるでドラマなど“なかった”かのように。

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事実より「政権に不利になるかどうか」が判断基準に…

 今回の騒動で以下のような2つのご意見が寄せられている。

(1)望月記者は政権を追及してきた人だから、こんな争いは政権側を喜ばせるだけなのでやめるべきだ=「敵を利する」論

 確かに安倍政権を支持していた人々を喜ばせるかもしれない。だが「こんな話は安倍氏らを利するからやめるべきだ」というのは、「こんな文書は野党を利するから改ざんすべきだ」と考えた財務省と同じではないか。問題は指摘された事実が「敵を利するかどうか」ではなく「事実かどうか」であり、今回の場合は事実だ。

(2)ドラマ自体は内容がいいから評価していいではないか=反フェアトレード論

 ドラマ「新聞記者」の作品としての評価は様々だが、仮に内容が素晴らしいならば制作過程に問題があってもいいのだろうか?

 フェアトレードという考え方がある。どんなにいい商品であっても、それが発展途上国で地元の人々を搾取し踏みつけにして作られたものならば、それはフェア(公正)なトレード(取引)ではないから買わないという考え方だ。制作過程はともかく内容はいいのだからとドラマを支持するのは、途上国の人々を踏みつけにした商品だと知りながら「これ、いいじゃない」と言って買うようなものだ。

「敵を利する論」も「反フェアトレード論」も共通する根っこがある。政権を批判したいあまり、事実かどうかより政権に不利になるかどうかで考えている。そして、そういうものは実は政権にとって大して怖くはない。だって、事実じゃないのだから。権力が恐れるのは事実、「権力にとって不都合な事実」を恐れる。それを調べ報じるのが真の記者だと、私は考える。

“なかったこと”にしようとする安倍政権を厳しく追及したのに

 東京新聞も望月衣塑子記者も、森友事件で国有地の不当値引きや公文書の改ざんを“なかったこと”にしようとする安倍政権を厳しく追及した。ところが今や自らが不都合な事実を“なかったこと”にしようとしている。新聞社、新聞記者としてのありようが問われる。

 赤木雅子さんの会見最後の言葉をもう一度振り返ってほしい。

「ただ会って、誤解を解いて、取材を続けてほしいって伝えたい。ただそれだけです」

 これは、手を差し伸べているのだろう。ラストチャンスではないか? 東京新聞と望月記者は、雅子さんが差し伸べた手を握り返すだろうか? それとも、振りほどくのだろうか?