初期作品「歪んだ朝」に隠された“西村メソッド”
――では、具体的な作品に即して解説していただきましょう。ムックには、西村さんの中短編5作を全文掲載していますが、本日はその中から、第2回オール讀物推理小説新人賞受賞作である「歪んだ朝」(1963年)をテキストにしたいと思います。
円居 初期作品にもかかわらず、この「歪んだ朝」は、書き方に早くも西村先生のメソッドがうかがえるんですよ。
本作は昭和30年代の浅草・山谷を舞台にした社会派推理小説で、冒頭、白鬚橋の欄干にもたれて煙草を吸っている刑事が、隅田川に浮かぶ少女の死体を発見してしまうところから物語が始まります。扼殺された少女の死体には、なぜか真赤な口紅が塗られている。これが第1段階の不可解な謎として、読者を引っ張っていくことになります。
田島の注意を惹いたものが、もう一つあった。少女の唇についていた、口紅である。真赤な口紅が、頬の辺りまで、はみ出す様に塗ってあった。少女の稚い顔と、真赤な口紅とは、似合わなかった。(22p)
お読みいただければ一目瞭然ですけど、序盤ほど描写が丁寧で、ゆっくり、少しずつ情報が開示されていく。10歳の少女が生まれた山谷のドヤ街の悲惨な様子、少女の父親のどうしようもない人間性などがじわじわと伝わってきて、主人公の田島刑事に寄り添う読者もまた「犯人が許せない」「少女の置かれた状況が許せない」、こういう気持ちになっていきます。
物語の後半になると、一転、物語のテンポはどんどん上がっていくんですが、前半のうち、西村先生は、捜査のプロセスや周囲の情景を執拗に描写し、読者を作品世界に絡め取っていきます。前段と後段とで、先生は意図的に書き方を変えているように思える。これがまず大事なポイントです。
円居 物語の前半、「口紅の謎」が解決しないことには捜査が先に進まないから、刑事たちは実に丹念に街を歩いて、手がかりを探していきます。これ、僕が想像するに、書いている西村先生自身、答えが分からず、答えを探しながら書いてるんじゃないだろうかと思える筆運びなんですよ。
――つまり、西村さんが冒頭、被害少女の唇に「真赤な口紅が、頬の辺りまで、はみ出す様に塗ってあった」と書いたときには、まだその理由を決めていなかったということですか?
円居 信じがたいかもしれませんが、ありえます。西村先生は、「口紅の謎」が解かれるまで、刑事を本当にあちこちに行ったり来たりさせ、靴底をすり減らして歩かせる。それを読みながら読者も「どうして口紅を塗ったのか?」と考えるわけですけれど、それが非常にいい効果を生んでいますから。