1970年代前半、麻布学園闘争が残したもの
前川、古賀、藤原、吉原が麻布高校に通っていた1970年代前半、麻布学園闘争が起こっている。当時、同校の権力を握っていた山内一郎校長代行は「私に反対する生徒は100人でも200人でも退学させる」と宣言するが、それに怒った生徒は授業をボイコットして、教育機能はマヒし、教師からも「恐怖政治」と批判が出た。校長代行は校内に警察を何回も入れて造反する生徒を10人近く逮捕させるなど、ムチャクチャなことをしていた。やがて、校長代行は校内外から厳しい批判を受け辞任、のちに収賄で逮捕されてしまう。前川、古賀、藤原、吉原の4人は10代の多感な時期にこういう状況を目の当たりにして、権力の濫用を許せなかったのだろうか。
麻布の造反DNAは元首相にも受け継がれていた。
第91代首相の福田康夫(1955年卒)は安倍政権をこう非難する。
「各省庁の中堅以上の幹部は皆、官邸(の顔色)を見て仕事をしている。恥ずかしく、国家の破滅に近づいている」。内閣人事局について、「政治家が人事をやってはいけない。安倍内閣最大の失敗だ」(共同通信配信、2017年8月2日)
反体制にまわるのが「麻布イズム」
自民党の閣僚経験者も安倍首相を好ましく思っていない。
元経済財政政策相の与謝野馨(1957年卒)も安倍政権に厳しかった。「アベノミクスは名前だけは良い」「中身はですね、感心しないものが多い」。竹中平蔵などアベノミクス支持派を痛烈に批判した。「竹中さんたちは花見酒の経済で、一晩パッと楽しくやればいいっていう経済なの」(TBS「ニュースの巨人」2014年10月28日)。
元経済産業相の平沼赳夫(1958年卒)は「大義名分なき解散 選挙に600億円以上使うのは国民に申し訳ない」(「インターネットTV 超人大陸」2014年11月17日号 )。
与謝野、平沼は自民党を飛び出して新党を旗揚げしたことがある。反体制にまわるのは麻布らしいともいえる(平沼はのちに自民に復帰)。
幸せとは言いがたい麻布OBの国会議員たち
ところで、麻布OBの国会議員は幸せとは言いがたい。
橋本龍太郎(1956年卒)は1年半で内閣総辞職。参議院選挙で惨敗したとき、「すべてひっくるめて責任は私にある」と言い残し、68歳で亡くなった。
中川昭一(1972年卒)は財務相時代、会見で呂律が回らず酩酊しているような姿をさらけ出す。批判を受け大臣辞任、直後の選挙で落選。その後、急逝した。享年56。
谷垣禎一(1963年卒)は総理を狙える位置にありながら、自転車転倒事故を機に引退を余儀なくされた。
麻布官僚、麻布政治家を見ると、「権力の横暴を許せない。長いものには巻かれろという姿勢を好まない」という信念のようなものを感じてしまう。
いま、麻布高校は式典などで国旗を掲揚しない。
前校長の氷上信廣(1963年卒)がこう言ってはばからなかった。
「今の『卒業式における国旗国歌の遵守』は、ただの教育に対する統制手段としか見えないけれど」(「NEWS ポストセブン」2012年3月25日)
なるほど、管理、統制が嫌いな学校と考えれば、麻布出身者に造反メンタリティが強いことは理解できる。
(敬称略)