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「正直言うと、もうワイドショーはやりたくなかった」

小柳 マイクスタンドにはならなくてすんだのね。

平野 そうそう、私たちの業界では、ひとつも質問できないことを「マイクスタンドになる」って言うんです。

小柳 「お前、マイクスタンドじゃないんだから!」って怒られるのよね。

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平野 最初はギャラもいっぽん2万5000円とかからスタートで、そこからはなかなかあがらない(笑)。事務所にも入ってなかったから交渉の仕方もよくわからないままでしたが、そこからずっとフジテレビとの仕事をしてきました。

小柳 私は事務所に入ってたから、3割引かれてタイヘンだった(笑)。短大を出て、東京アナウンスアカデミーに入って、アナウンサーやリポーターの事務所に所属して司会とか単発のリポートとかを。そのうち信越放送の旅番組のレギュラーが決まってやったあとに、「ルックルックこんにちは」(1979~2001・日本テレビ)のオーディションに合格しました。岸部シローさんが司会の頃で、そこで3年。当時は、月曜日は「レンズポート!」っていうコーナーで事件を扱っていて、とにかく週末は取材して、月曜日に放送の日々でした。

©文藝春秋 撮影/深野未季

 そのあと結婚のタイミングで少しお仕事お休みしていたら、「おはようナイスデイ」のオーディションがあるって事務所から言われて。正直言うと、もうワイドショーはやりたくなかったの(笑)。でもナイスデイに受かって、またリポーターやりだしたらそのうち楽しくなっちゃって、結局36年!

経費削減で食事代がなくなりおにぎりに…

――90年代、2000年代初頭までは賑やかだった「ワイドショー」も、徐々に数も減ってきましたね。

小柳 「とくダネ!」(1999~2021)の途中くらいから、リポーターが休みもなくフル稼働という状態はなくなりましたよね……。もちろん経費削減の流れは大きいのですけれど。いつのまにか経費の食事代もなくなって、それぞれがおにぎりなどを買って現場に臨むようになってきました。

©文藝春秋 撮影/深野未季

平野 それまでは、事件でも芸能でもリポーターが取材に出ていました。ディレクターにカメラマン、VEさんにロケ車の運転手さんの5人体制で現場に行く。その取材映像をスタジオや中継で使ういわば「VTRショー」だったんです。でも近年は、地方取材などはディレクターだけで行ってレポーターはなし。私たちはディレクターが撮ってきた映像をスタジオで受ける「プレゼンター」となったんですね。

小柳 すっかり変わってしまいました。スタジオにあるマルチと呼ばれるモニターを使う「マルチショー」に。

平野 リポーターが地方に長く滞在する、なんてなくなりましたものね。

小柳 たぶん「おはようナイスデイ」から「とくダネ!」になってからが本当の転換期だったと思うんです。コンプライアンスの意識も高まってきて、作業が倍に増えたような気がします。