羽生が約3000万円を寄附し、被災から再建したアイスリンク仙台。ただ、練習できる時間は限られていた。昼は阿部奈々美が自身の生徒を教えていたからだ。
「感染対策もあり、日中は家族が暮らす仙台のマンションからほとんど出ない生活。夜中にリンクに向かっては、深夜2時、3時まで4回転半の練習を続けていたのです」(同前)
ところが、羽生になおも試練が立ちはだかる。昨年11月、右足関節靱帯を再び損傷。ストレスから食道炎を患い、発熱もした。
「もう辞めちゃおうかな。こんなにやっているのにできない。これ以上、やる必要あるのか」
思わずそう漏らすこともあったという。
「最後の舞台で、オーサーより母を選んだのです」
だが、迎えた12月の全日本選手権では果敢に4回転半に挑戦。回転不足に終わったものの、6度目の優勝を果たした。コーチ不在の仙台で孤高の闘いを重ねる羽生。それゆえ、北京五輪では“最愛の女性”がどうしても欠かせなかった。
1月14日、オンラインで開かれた連盟の理事会。理事の一人が証言する。
「この日の理事会で、由美さんを“支援スタッフ”として北京に帯同することが決まりました」
“支援スタッフ”とは、どんな立場なのか。
「日本食を作るシェフや選手個人で雇っているトレーナー、用具整備を担当するメーカー社員ら選手の支援をするスタッフです。今回はコロナ対策もあって、支援スタッフに付与するパスの数を絞っていました」(別の連盟関係者)
そうした中、連盟は羽生の希望を叶える形で、異例なことだったが、由美の北京帯同を認めたのだ。
「由美さんはこれまで国内外の試合で必ず同行してきました。パンが苦手な羽生は海外でもコメが必須。本人の体調、精神状態を誰より把握しているのが、彼女です。一方で羽生はオーサーをコーチとして登録するのを見送りました。最後の舞台で、オーサーより母を選んだのです」(同前)
冒頭のように2月6日昼、北京に降り立った羽生。傍らに寄り添うように歩いていたのは、由美だった。
そして――。
目に涙を滲ませたSPからの挽回を期す10日のフリー。羽生が初めて氷の上に立ってから、実に23年の歳月が経過していた。最後まで支えた母、夢を諦めた姉。彼を愛する家族の想いも乗せ、不屈の絶対王者は“ラストダンス”の舞台に立つ。
(#1から続く・文中敬称略)