最も信頼度が低いのは医師のコメントだけで構成する医療記事
他にも臨床研究には、たくさんの住民を長期間にわたって追い続け、どんな生活習慣をしている人が病気になりにくいかなどを調べる「コホート研究」や、たとえばがんになった人とならなかった人とで過去の検診率の違いなどを調べる「症例対照研究」といった方法があります。しかし、これらはシステマティックレビューやメタアナリシス、ランダム化比較試験より信頼性のレベルは下がります。
さらにエビデンスレベルが低い研究には、「症例報告(ケースレポート)」や科学的データに基づかない「専門家個人の意見」などがあります。珍しい病気の症例報告などは、多くの医師が気づかない重要な知見をもたらしてくれるので重要とされていますが、「ある病気にこんなサプリメントを投与したら治った」といった報告があったとしても、それだけでは本当にその効果かどうか判断できないので、エビデンスとしては信用できません。サプリの効果を証明するにはランダム化比較試験が必要です。
また、どんなに偉い大学の教授や有名な医師だったとしても、科学的データに基づかない印象論や、エビデンスレベルの低いデータに基づいての発言は鵜呑みにできません。新聞、テレビ、週刊誌、ネットなどでは、医師のコメントだけで信用させようとする記事や番組がありますが、エビデンスが明示されていない限り、信頼していいか判断できないのです。
ジャーナリズムの基本は「ウラ」を取ること
医療はエビデンスだけで成り立つものではありません。EBMでは患者の価値観や医師の経験・技能、理論なども踏まえたうえで、その患者さんにとって最善の治療を選択すべきだとされています。とはいえエビデンスを知らないと、最悪の場合には間違った治療で患者の命を縮めてしまう恐れもあります。ですから、医療の世界では治療選択にあたって、エビデンスを参照することが重視されるようになったのです。
一方、ジャーナリズムはどうでしょうか。ときにはエビデンスの弱い「疑惑」や「恐れ」の段階でも、報じるべき場合があると私も思います。たとえば、権力者の不正は疑惑であったとしても報じるべきでしょう。ただし、明確な裏付けがない場合には、それが読者にきちんと伝わるようにしなければ「印象操作」になりかねません。
そもそも、ジャーナリズムの基本は「ウラ」を取ることです。ウラ(証拠)がないのに報じてしまったら、疑惑の人物の人生や存立の基盤を台無しにしてしまうかもしれないからです。医療報道も同じで、十分なエビデンスなく報道したら、読者や視聴者の健康を損ねてしまう可能性があります。自由に議論を戦わせることは大切ですが、あくまでエビデンスに立脚することが、言論の自由を守るとともに、人権尊重の観点からも重要なのではないでしょうか。
参考文献)能登洋著『やさしいエビデンスの読み方・使い方』南江堂など