また、空自では例年、全国十数カ所の基地の航空祭などで行ってきたブルーインパルスの曲技飛行も、コロナ禍の影響でイベントそのものの実施が不能となっており、そのブランクによるパイロットの操縦技量への影響も気にはなっていた。
「むしろ私は慎重な気持ちだったんですよ」
だが、航空自衛隊トップとしての丸茂には、それとは別の懸念があった。
「国全体が感染症で苦しんでいる時期に、曲技飛行で自分たちをアピールしようというのか、とおっしゃる方もいるでしょう。もちろん、飛べば多くの皆さんは感激し、趣旨に賛同していただけるとは思うんです。でもそうすると今度は、ブルーインパルスを政治的に利用しようという人たちも出てくるのではないかと。だから、諸外国で飛んでいるのを見たとき、むしろ私は慎重な気持ちだったんですよ」
軍事組織が政治の道具であることは論を俟たない。世界各国の空海軍がアクロバットチームを保有し続けるのは、その空軍力を内外に喧伝して国力と戦力を誇示するため。国産機を使用すれば、さらに他国への売り込みにも有効だと考えるからだ。何より兵士の募集に役立つ巨大な広告塔だと考えるのはどこの軍隊も共通している。だが、こと日本のブルーインパルスはさらに別の意味も担っている。
航空自衛隊はブルーインパルスが発足するまでの黎明期に、数多くのパイロットを失っている。その背景には歴史的経緯がある。
太平洋戦争の敗戦により、日本軍はGHQによって徹底的に解体され、陸海軍の職業軍人は公職追放となった。ところが1950年に勃発した朝鮮戦争により、一転して日本の防衛力整備は急務となり、54年に創設された航空自衛隊は、米国から大量に供与された戦闘機を一刻も早く使いこなさなければならなくなった。
ところが旧軍出身パイロットと米国人教官との軋轢に加え、速成の飛行教育には無理もあり、54年から57年までの4年間に墜落事故で33人の操縦士が殉職している。緊急脱出をしても当時の航空救難体制は貧弱で、海に浸かって救助を待つうちに凍死する者もいた。
果たしてこれで防空体制が成り立つのかと疑心に駆られる日本人操縦士に向けて、米軍事顧問団の一員だったある空軍パイロットが奨めたのが、編隊曲技飛行だった。士気を保ち、空を飛ぶ意欲を失わないようにと戦闘部隊のなかで自然発生的に始まったアクロバット飛行は、58年に初めて浜松基地で一般公開され、ブルーインパルス発足のきっかけとなった。
ブルーインパルスが創設された1960年は、新・日米安全保障条約の発効という歴史の転換点だった。日本の再武装と新憲法との整合性、そして国内に駐留し続ける米軍への大きな反発が世論にあり、国民に自衛隊をアピールする道具として、曲技飛行チームを立ち上げることのきわどさは想像に難くない。だからなのか、ブルーインパルスはかつて「戦技研究班」という、戦闘部隊に準じるような正式名称を長い間用いてきた。