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中島らもに憧れて劇団を立ち上げ

 自分の内なる何かを表現したいというモヤモヤが募った高校時代、音楽だけに飽き足らず、欽ちゃんの仮装大賞にも3度エントリー。友だちが始めた劇団にも出入りしていた。

 この表現欲求に衝き動かされて、高校卒業後は上京して演劇系の学校に入学。作家の故・中島らも氏が主宰していた「笑殺軍団リリパット・アーミー」という劇団に憧れ、間もなくして「三角公園」という劇団を立ち上げた。

「リリパット・アーミー」って、らもさんの家に個性的な人が何人も居候して、ハチャメチャな環境で共同生活している混沌とした劇団というイメージがあったんです。その非日常的でカオスな雰囲気を味わいたくて、僕も劇団を立ち上げたり、友だちと共同生活をしたりしていたんですが、意外に破天荒な生活ってできないんですよ。やっぱり後先を考えちゃうんですよね。らもさんみたいになりたいと思ったけど、僕はそこまでじゃなかった」

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 確かに、橋本さんには現実的な一面もあった。物心ついた時から「20歳になったらもう大人。大人は結婚して所帯を持つもの」と考えていたこともあり、20歳で結婚。劇団を解散するとあっさり福岡に戻り、建設業を営んでいた実家の仕事を手伝い始めた。

デザインの仕事から八百屋に転身

 しかし、職人気質の職場が肌に合わず、「そもそも、体力を使う仕事は向いてない」と3年で退職。東京で劇団やバンドをやっていた時に自らチラシのデザインを手掛けていた経験を活かし、友人とSOHOで新聞折込チラシの製作などを請け負うようになった。もちろんデザインの仕事など初めてで、なんのノウハウもなかったので、つながりのあった建設業者に挨拶回りをして地道に仕事を獲得した。

 ところが友人との関係が悪化するかもしれないという不安から、わずか半年で方向転換。今度は八百屋になった。

「糸島の知り合いが八百屋をやりたいと言っていたので、じゃあ僕がやろうと(笑)。八百屋のことも何も知らなかったけど、福岡の天神にある親不孝通りからちょっと入ったところに店舗を構えて、糸島の農家から仕入れた野菜を売ってました」

 勢いだけで始めた八百屋も、案の定、うまくいかなかった。自分自身も野菜を売ることに情熱を見いだせず、同じく半年で撤退。妻と幼い子どもを抱えて路頭に迷いかけた頃、転職雑誌で「未経験でもOK」と書かれた派遣のエンジニアの仕事を見つけて応募した。

 

「実家の仕事をしている時から、公開されているプログラムのソースコードを自分なりに改造して、テクノ系の音楽情報サイトを作っていました。そのサイトはけっこう人気があって、クラブに遊びに行くと初対面のお客さんが僕のことを知ってるということも多かった。プログラムは詳しくなかったけど、そうやって高校時代からずっとパソコンをいじり続けてきて最低限のスキルはあったから、なんとかなるだろうと応募したんです」