「私は青森県の高校を卒業後、看護師になりました。とりたてて高尚な考えがあったわけではありません。ただ、人のために役立てる仕事かなと思いましたし、母からも“手に職をつけておきなさい”と言われましたので、看護科で学び、その後資格を取りました」(京子さん)
ある日、職場の看護師仲間が京子さんに耳打ちした。
「なんかプロレスの人が病棟にいるみたいよ」
「えっ……誰だろう?」
なぜ、こんな会話になったのか。
「私がプロレスファンであることを知っていたので、わざわざ教えてくれたのだと思います。でも、主人のことは当時、まったく知りませんでした。私は前田(日明)さんの大ファンで。アハハ……」(京子さん)
食事を機会に、2人は交際を開始する。
「素朴で、優しい感じだなと。結局、東京女子医大病院でも手術はうまくいかなかったんです。いま思えば、カミさんと出会えたのが唯一にして最大の収穫でしたね」(片山)
1990年3月、片山は5年間在籍した新日本プロレスを退団する。相次ぐケガで、これ以上団体に迷惑をかけられないとの判断からだった。
「私も主人も若かったんでしょうね」
京子さんが当時の心境を思い出しながら語る。
「プロレスを辞めて無職になってしまったけれども“私が働いて支えるんだ”というほどの切実感もなくて、漠然と何とかなるのではないかと考えていたような気がします。主人は手先が器用だったので、プロレスのマスクやコスチュームを作る仕事に転身しようかと考えていたこともありました。そんなとき、新しく設立されたプロレス団体のSWSから声をかけていただきまして、もう一度プロレスラーとして挑戦することになったんです」
「自分としては、カミさんにも知らせて欲しくなかった」
1990年に設立されたSWSは、史上初めて大企業(メガネスーパー)が経営母体となったプロレス団体として知られ、全日本プロレスを退団した天龍源一郎をエースとした「業界の黒船」だった。
「入団にあたり支度金も出ましたし、新日本時代より良い待遇を提示してもらえました。これを機に彼女とも正式に入籍しました」(片山)
1990年6月、片山と京子さんは結婚式をあげた。冒頭の事故が起きたのは、その1年半後のことだった。
「その瞬間」を片山本人が語る。
「痛みはなく、意識もあるんです。周囲は大騒ぎだったようですが、自分としては、カミさんにも知らせて欲しくなかった。ケガをするのはプロとして非常に恥ずかしい話でしたし、どうせそのうち麻痺した感覚も戻ってくるのだから、心配する必要などまったくない。どうか大げさな話にはしないでほしい。そう思っていました」