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「緊急搬送」の知らせを夜に聞いた京子さんは、東京から夜行列車に乗って搬送先の大阪・大野記念病院に駆けつけた。

 そして事故からわずか1週間後、京子さんは医師から衝撃的な宣告を受けることになる。

「首から下の麻痺は回復しません」

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 医療の現場で仕事をしてきた京子さんにとっても、それは信じがたい言葉だった。

「もう治らないということですか?」

「そうです。申し上げにくいことですが……」

 京子さんが回想する。

「確かに看護師の仕事はしていましたが、現場で担当するのは循環器系の患者さんが中心で、神経損傷に関する知識は一般の人とほぼ同じでした。“麻痺はもう治らない”と聞いてもまったくイメージできなかったですね。首から下が動かなくなった人間が、どうやって生きていくことができるのか……信じられないし、現実感がなかったです」

リング外への飛び技は片山さんの得意技だった ©山内猛

 もっとも「そのうち感覚は戻ってくる」と信じて疑わない片山に、医師から聞いた残酷な「宣告」を知らせることはできなかった。

「あのとき、激しく落ち込んでいた私を励ましてくれたのは、新日本で同期だった大矢(剛功)さんや、メガネスーパーの社員の方々でした。普段はプロレスと直接関係ない仕事をしている方が多いにもかかわらず、治してくれるという病院の情報を集めては私に知らせ“きっとうまくいくから”“奇跡が起こるかもしれない”と声をかけてくださいました」(京子さん)

 当時、SWSという団体はプロレスファンに受けが悪かった。その最大の理由と考えられるのが『週刊プロレス』による「金権プロレス」批判である。

 既存の団体から大金で選手を引き抜くSWSは、仁義なき団体であり「悪」である――当時、専門誌としては異例の発行部数を誇り、業界に大きな影響力を持つ媒体だった『週プロ』(ターザン山本編集長)の論陣は、SWSにとって大きな逆風となった。そのせいもあってか、SWSは片山の事故から半年後、活動を停止している。

 しかし、メガネスーパーは試合で大ケガをした片山をバックアップしていた。どんなに資金力があったとしても、人まで動かすことはなかなかできない。経営基盤が弱く、選手が使い捨てにされる傾向の強いこの業界では、異例の「誠実な対応」であったと言えるだろう。

 入院した片山の病室に簡易ベッドを持ち込み、京子さんは泊まり込みを続けた。

「まず、手足が動かないですからナースコールを押すこともできないですよね。24時間誰かがそばにいないといけない状態でした。あの当時は、大変というよりも、やらなければいけないことと向き合うだけで精いっぱいだったように思います」(京子さん)

「当時は、いつか動けるようになると固く信じていました。正直に言えば、ちょっとまずいぞという予感はありましたが、それでも何とかなるだろうと。半年たっても1年たっても、その思いは変わらなかったですね」(片山)

新日本プロレスでの新人レスラー時代の片山さん(前段中央)。蝶野正洋、橋本真也の姿も見える ©新大阪新聞社

「根拠のない希望を勝手に抱いていたように思います」

 当時の日本の医療現場では、患者本人に「真実」を伝えるというコンセンサスがまだ形成されていなかった。

「いまでこそ本人に告知されるのが当たり前になりましたが、当時はたとえ末期のがんでも、本人には伝えないのが主流だったかもしれません。私も、主人を絶望させる可能性のある内容をあえて伝えようとはしませんでした。歩けるようにはならなくても、片手だけならそのうち動くようになるのではないか……そうした根拠のない希望を勝手に抱いていたように思います」(京子さん)

 もっとも、事故から30年以上が経過したいま「これだけは知ってもらいたい」と片山は語る。

「損傷した神経を再生させることは、少なくともいまの医療技術では不可能です。私もよく“リハビリを頑張ってください”と励まされることがあるのですが、いったん神経が切れると手足は動きませんので、リハビリはできません。私がそのことを冷静に受け止められるようになったのは、ずいぶん後のことです」