劇的な大勝利で世界一奪還を果たした侍ジャパン。WBCの興奮冷めやらぬ中、ついに4月1日から日本ではプロ野球、アメリカではメジャーリーグも開幕した。開幕早々、村上宗隆の今季初ホームランをはじめ、侍ジャパンメンバーから目が離せない。
そこで、「これを読めばさらに彼らの活躍が楽しめる!」WBC出場メンバーのルーツを独自取材した「週刊文春」掲載の短期連載を特別に無料公開する(初出:週刊文春 2023年3月2日号 肩書きは公開時のまま)。
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独立リーグ出身投手として初めて侍ジャパン入りを果たした、虎の誇る若き最強リリーバー。その急成長の裏には高校でのマネージャー経験、そして富山で出会った師の存在があった。
「監督、自分ピッチャーをやりたいので、今日から練習します」
2016年の秋の東北大会が終わった直後。聖光学院高校の斎藤智也監督は、2年生の湯浅京己の言葉に驚き、思わず聞き返した。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
それまで、湯浅のプレーを斎藤監督は見たことがなかった。湯浅は高校入学直後の春に腰の成長痛を発症し、練習に参加できなくなった。それ以降1年半もの間、彼はマネージャーとしてチームメイトの食事の米を炊き、東北大会ではスコアラーを務め、チームを献身的に支え続けていた。
だが、初めて湯浅の投球を見た斎藤監督は、再び驚かされる。
「どんなもんだろうと思っていたら、いきなり135キロを出した。これは、怪我さえなければとんでもないピッチャーになるぞと」
野球がそれまでできなかった鬱憤を猛練習で晴らした湯浅は、高3の春に143キロ、夏にはチーム最速の145キロと、うなぎ上りで球速を上げた。しかし――。
「この学年は140キロを出せて、しかも制球がいい投手が他に4人いた。当時の湯浅はまだコントロールにばらつきがあり、潜在能力は確かだったけれど、高校球児としての完成度では5番手でした」(同前)
夏の甲子園に向かう前々日。ベンチ入りのメンバー発表で、湯浅の名前が呼ばれることはなかった。斎藤監督の苦渋の決断だった。
当時の主将で親友の仁平勇汰氏が、その時の湯浅の様子を明かす。
「メンバーに漏れた湯浅に『お前の分も頑張るから』と言ったら、めちゃめちゃ泣いていたのに笑顔をつくって、『俺の分も頑張れよ。バッティングピッチャーしてやるからな』と返してくれたんです」
甲子園で湯浅は、試合前は打撃投手を務め、試合中はスタンドで声を嗄らし、3回戦で広陵高校に敗れるまでチームに尽くした。