“飛行場”→“海水浴場”→そして…
しばらくはそのまま放置されていた“夢の島”だったが、1957年にゴミの処分場になることが決まる。それまでは潮見が使われていたが、急激に増え続けるゴミで満杯になり、新たな処分場として使い道の定まっていなかった夢の島に白羽の矢が立った。
1960年代、1日の東京のゴミの量は実に8000トン。そのうち2000トンは焼却処分されるが、残る6000トンは焼却されずに夢の島に運ばれて、埋め立てが進んでいった。処分場といえば聞こえは良いが、つまるところは“ゴミを海に捨てた”に等しい。そうして夢の島の埋立地は、今のような形に広がっていったのである。
ここで問題が起きる。ゴミが発酵してガスとなってそれに引火して火事が起こる。野犬やネズミが闊歩する。あげくに、夏場にはハエが大量発生し、対岸の江東区南西部の住宅地にまで広がってしまった。あれこれ手を尽くしてもどうにもならず、最終的には自衛隊まで出動してゴミを焼き尽くしたのだという。夢とはまったく正反対の地獄絵図。
この経験があったからか、都内のゴミの大半を引き受けていた江東区が新たな処分場建設に反対を表明。都内各地に処分場を分散して建設することになり、徐々にゴミ問題は解消に向かってゆく(この過程でもいろいろあるのだが、それはまた別のお話である)。
夢の島でのゴミの埋め立ては1967年に完了。その後に正式に地名が「夢の島」になり、公園として整備されていまに至っている。“木の町”として新木場に木材関連の会社が移転してきたのは、それよりも後のことである。
駅に戻り橋の上から運河を見ると…
新木場駅から湾岸道路を挟んだ北に広がる夢の島公園。その歴史は、“木の町”新木場以上に波乱に満ちていた。おなじ埋め立て島の北側が夢の島で、南が新木場。駅はその境目にあるのだから、夢の島駅といってもよかったのかもしれない。
なぜ新木場駅になったのかはわからないが、夢の島=ゴミの処分場というイメージがあったからなのだろうか。いずれにしても、いまの夢の島は公園とマリーナと植物園があって、遠くにはスカイツリーも見えるのどかな湾岸の緑地帯。そこに、ゴミの埋立地の面影はまったくなくなっている。ゴミの処理は、公園の脇にある新江東清掃工場で今も行われているが、それは埋め立てではなく焼却処分である。
新木場駅に戻り、たもとにagehaがあった橋の上から運河を見る。いまはほとんど使われなくなっているが、運河上には“木の町”らしく貯木場があるという。そしてその遠く向こうに見えるのは葛西臨海公園の観覧車。新木場駅から東に向かう京葉線は、お隣が東京都最後の駅、葛西臨海公園。そして旧江戸川を渡り、夢の国の玄関口・舞浜駅に向かうのである。
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