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 そして生まれるのが、「いじめではない」という言葉だ。普通の校長は守りに徹した学校運営をしているから、たとえいじめがあっても、それはいじめではないとされてしまう。理不尽極まりない。

写真はイメージです ©iStock.com

担任ガチャはあって当然

「親ガチャ」。このネット上の俗語が数年で一気に市民権を得たのも、学校のウソくささが影響している。これは自分の親が「ハズレ」だとする10代から生まれた言葉だといわれるが、根底には、学校にはびこる正解主義がある。私に言わせれば、親ガチャなんて当然で、親には「アタリ」も「ハズレ」もない。「アタリ(正解)」があるから「ハズレ(不正解)」が生まれるのであり、むしろ「アタリ」をつくることの罪を問いたい。「これが正しい人生」だと御旗を振り、ガチャをなくそうとする世間のウソくささを指摘したい。

 ガチャは、ある。ガチャとはすなわち、運不運のことである。だから世の中から消えることはない。ないふりをしても、いいことは何もない。

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 学校にも「担任ガチャ」は当然あるのに、ないふりをするウソくささについても指摘しておく。

認めることで拓ける道がある

 例えば、全校生徒300人程度の学校では、教員が講師も含めて20人近くいる。

 その中で、管理職である校長・副校長・教頭は、翌年度の学年配置と異動人事を行なう。担任に向いている先生もいれば、向いていない先生もいる。産休に入った先生の代わりは、臨時的任用の教員で埋めなければいけない。3学年ある中学や高校で、英語の教員が3人いれば、力量はそれぞれだ。一定以上の指導力はあるとはいえ、持ち味に違いがあるばかりではなく、発音や会話が苦手な先生もいる。

 私企業では、会社のある部署に配属された新人には、当然のように運不運がつきまとう。上司ガチャはある。それと同じで、担任に恵まれるか否か、担任ガチャは当然あるだろう。学年が進めば、生徒たちも噂するようになる。先生たちの評判を、だ。

 ただ私自身は、小学校時代に強い担任に長く指導を受けたことで、中学に入ってきてから自分の居場所を作れず不安定になった生徒を見てきたし、担任としては弱い先生のクラスが一致団結して体育祭や文化祭で結束する姿も目撃した。弱い担任のクラスで逆に、女子のリーダーシップが強くなるドラマに舌をまいたこともある。

 どちらに転ぶかは人それぞれなのだが、担任ガチャはあると認めよう。認めることで拓ける道があるからだ。