とはいえ、最前線にいる教員は心労が絶えない。ましてや生徒の不登校に至っては、自らの指導力のせいだと反省する教員が多い。
しかし、この複雑な現代社会では、10代の少年少女が抱えている家庭問題も個人としての悩みも複雑で深い。自分自身が思春期にあまり問題を抱えなかった若手教員にとっては、なかなか対処が難しいだろう。
教員は不登校の児童生徒を出すことが“恥”だと考えない方がいい
和田中では、学校の集団行動が向いていないと判断された生徒には、自治体の運営する「適応指導教室」へ早めに誘導していた。そこでは個別指導が可能になり、1日に1コマでも通えば出席扱いになる。通える範囲で週に何日通ってもいい教室だ。そこに3年間通って卒業し、高校に入学した子もいた。高校になれば通信制のような柔軟な形態のものがたくさんあるから、担当する先生との相性が合えば、さらにそこから学べるだろう。
30人や40人という集団の中ではうまく自分を表現できない生徒。そんな子は、今後も増える可能性がある。20人前後の少人数制にしたとしても、必ずしもその解決にはならない。
だからこそ先生が、「自分の指導力がないから生徒が不登校になった」と過剰に責任を感じるのはどうかと思うのだ。そのプライド(自負心)が強過ぎると不登校がタブー化して、かえって児童生徒を苦しめる結果を招く。担任だけでなく学年主任も生活指導主任も学校長も、不登校の児童生徒を出すことが“恥”だと考えない方がいい。
あくまでも生徒が螺旋(らせん)的に行きつ戻りつ、上がったり下がったりしながら成長する過渡期の状態だと捉えればいい。先生と生徒といえども人間同士なのだから、互いに人生経験をやり取りするしかない。
いじめゼロ運動によって発生する“隠れいじめ”
いじめについては、あって当然だと考える。
その証拠に、学校の児童生徒の間だけでなく、職員室にもPTA組織にも、会社にも国会議員の皆さんの間にも実際あるではないか。大人同士のいじめを隠して、子どもにいじめを禁じても始まらない。
一時期、いじめ自殺事件が学校で相次ぎ、いくつかの自治体で「いじめゼロ」運動が標榜されたことは記憶に新しい。気持ちはわかるのだが、いじめは人間が集団を形成する際の癖なので、ゼロにするのが目標だと無理が生じる。途端にウソくさくなってしまう。
そうではなく、いじめがあるのを前提にして、無限に対処することを約束する方がいいのではないだろうか。そうでないと、「いじめゼロ」運動を掲げた自治体では、たとえいじめがあっても現場から報告しづらくなってしまう。ひどい場合には、ただでさえ生じやすい隠蔽体質がそれによって強まるだろう。いじめゼロ運動によって、“隠れいじめ”が発生するのだ。