――ここまでのお話で出てきたどの言葉も酷すぎますが、かけられた言葉の中で、特に一番忘れられないもの、今も思い出してしまうものはありますか。
尾添 母親の「私なんですか?」「人工授精はどうなの?」、父親の「俺に娘なんていなかった、椿なんかもういらねえよ」という言葉です。
「私なんですか?」については、先ほども話した通り、母親と殴り合いになった際に首を絞められて過呼吸とパニックで動けなくなって搬送されている最中、救急隊員の「パニックと過呼吸で話せない、母親と口論になって……」という説明に対して笑みを浮かべながら言った言葉です。
「娘なんていなかった」は、その言葉が出てくるということは、子供が必要だったけど、私に興味なかったんだなと知るには十分すぎるものでした。
愛されていないことを認めるのは、とても苦しかったです。
林檎アレルギーで吐きまくる娘を見て笑う両親
――作品では、抜毛症や不眠症など、体に現れたいろいろな症状についても描かれています。特に限界だ、と感じたのはいつ頃のことだったでしょうか。
尾添 抜毛症は完治し眉毛も睫毛もフサフサになりました。特に限界だと感じたのは、不眠症の対処法として飲酒を強要され免疫が弱った結果、高校2年生の時に林檎アレルギーを発症したんですが、両親はアレルギーを覚えなかったことです。
無視して林檎入りのご飯を作り、林檎が入っていると知らずに食べた私が吐きまくってるのを見て両親が楽しそうに笑っていました。
その頃から「こいつらに付き合いきれない、絶対出ていく」と決意してました。アレルギー発症当時、高校2年生頃です。
――思い出すのはつらいかもしれませんが、今思い返すとご両親はどんな人だったか、可能であれば教えてください。
尾添 両親、特に父親は長いこと音楽業界で活躍し生計を立てていたこと、母親は複数の会社経営をしていることを踏まえると、社会生活を送ることに全ての能力を使っていた人たちだと思います。
絵に描いたような、良いお家柄の優しい金持ち夫婦。今思い返しても二人は夫婦として上手くいっていたと思います。
私は両親から見て不出来な子供だったから「この子には婿を貰って跡継ぎを産んでもらおう」と判断されて、10歳くらいで興味を持たれなくなった。
両親は私が嫌いだったり、関わり方が分からなかったとか、愛し方が分からなかったわけじゃなくて本当に興味がなかったんだなと思います。