主人公が涙を流した理由を視聴者に理解してもらうには…
例えば、あなたはプロデューサーやディレクターの立場で、長い旅のドキュメンタリーを作っているとします。撮影は順調に進み、主人公はゴールに辿り着くと感極まって泣き崩れました。あなたはとても良いものが撮れたと満足するでしょう。
しかし、実のところ難しいのはここからです。あなたはその涙を視聴者にとって理解可能なものにしなければなりません。涙に至るまでの道中で、その涙が流された理由を示す必要十分な説明を適切に済ませなければ、主人公は何でもないことに涙を流す安い人間だと、視聴者に見做される危険があるのです。主人公は東京を発ち、北海道のとある辺鄙(へんぴ)な場所まで、列車、船、ヒッチハイクと徒歩で向かうとします。軽井沢に行くのと比べれば遠いし、アフリカに行くのと比べれば近い。そのゴールで主人公が涙を流すには、相応の理由が必要です。
まず説明しなければならないのは、主人公がなぜその旅に出たのか、その理由です。
その目的地は主人公にとってどのような意味を持つのか。何らかの理由で会えなくなってしまった友人との記憶が残された場所なのか、あるいは長く憧れ続けた誰かの生まれ育った場所なのか、それとも自分のルーツを辿った先に行き着いた場所なのか。そこが明らかにされれば、ゴールで流される涙を、視聴者も理解できるかもしれません。
24時間マラソンでランナーの涙に視聴者が共感する理由
一方で、その旅に理由など全く存在しないという場合はどうしたらいいでしょうか。
一般的に言ってそのゴールで流される涙は意味不明です。しかし、力技で納得させることもできる。『24時間テレビ』の100キロマラソンがまさしくそれです。ランナーは概ね「話題になるから」という理由でテレビ局から依頼されただけであって、もともと24時間走り続ける目的など持ち合わせていませんし、ゴールに指定されている両国国技館に特別な思いを持っている可能性も限りなくゼロと言えるでしょう。にもかかわらず、ゴールで流されるランナーの涙に、視聴者はなぜか幾許かの共感をしてしまう。そこで利用されるのは、道中の過酷さの演出です。
ここでいう道中には、本番までに積んできた練習が含まれます。多忙を極める人気タレントが、わずかな休息の時間を削りに削り、トレーナーに付き添われて走る訓練をする。あまりの疲労に追い詰められ、苛立つことも、涙を流すこともあるでしょう。怪我に絶望することもあるかもしれない。トレーナーとの関係にも物語が生まれます。本番が始まる頃にはトレーナーであることを超え、パートナーと呼ぶに相応(ふさわ)しい状態になっている。