初めのころは、いきなり「What's your name?」と尋ねてひどく叱られたりした。自分の名前も名乗らずに人の名前を聞くのは無礼だ、というのである。それで、
「How are you?(ご機嫌いかがですか)」
「It's nice weather(いい天気ですね)」
「Where are you from?(どこから来たんですか)」
ぐらいを覚えて、あとは身振り手振り、度胸任せで会話を続けた。少し慣れてくると、率直に、
「実はビジネスでアフリカに行かなければならないのだが、英語が全然だめなので、話をしてくれないか」
と打ち明け、初対面のビジネスマンたちに即席の英語教師になってもらった。
それから半年後の1971年6月、宣政は大阪国際空港からアフリカに向けて一人で飛び立った。日程は2カ月半である。
まずは、西アフリカ最大の商業都市ラゴスへ。英領植民地から第二次世界大戦後に独立を果たしたナイジェリア連邦共和国の首都(その後、アブジャへ遷都)だ。
石油埋蔵量の豊富なこの国では、東部の独立派と政府軍の独立戦争が1年半前にようやく終結していた。「ビアフラ戦争」と呼ばれたこの内戦では、200万人以上の国民が飢餓、病気、戦争で死亡したと報じられた。飢えて骨と皮にせ細った子供たちの写真は世界中に流され、「ビアフラ」の名は飢餓の代名詞となっていた。
戦火の余燼と傷がまだ消えやらぬその国へ、宣政は己の度胸を頼みにして、髪結いひもを売り込むのだ。
「この旅行は父親の借金を返すため、佳美の治療費のため、家族のためだ」
何度も何度も自分にそう言い聞かせた。
両親と妻、子供たちが、空港まで見送りに来た。3つになる佳美が陽子に抱かれている。その姿に、「長くは生きられない」という医師の言葉が蘇り、手ぶらでは戻れないと改めて思った。