茨城県内“第3の規模”だが、駅前の人はほとんど見かけず…
日立市の人口は約16万5000人。減少傾向にあるとはいうが、それでも茨城県内では第3位だ。かといって、駅前の目抜き通りが人通りに恵まれているとは限らないのは地方都市の常である。
クルマこそバンバン走っているけれど、広々とした歩道を歩く人はほとんど見かけない。別に人がいないのではなくて、ただ単にみんなクルマを使っているだけのことだ。
歩いている人が少なければ、畢竟飲食店なども少なくなる。まだ咲いていない殺風景な桜並木をまっすぐ西へ。途中でちょっとくねくねとするところもありつつ、だいたい15分ほど歩いたところでどん突きにたどり着いた。平和通りのどん突きには国道6号が南北に走る。
海岸線にはバイパスが、山肌には常磐自動車道が通っていることもあって、どん突きの国道6号は2車線道路でそれほど幅が広い道ではない。それでもクルマ通りは実に多いし、ここまで来れば歩道を歩いている人の姿もいくらかは増えてくる。国道沿いにはどことなく古めかしさを漂わせる商店も見え、このあたりの歴史の長さを感じさせてくれる。
黄門様に由来するはずの地名だが…「本来のこの地域の地名は助川という」
日立の町は、黄門様の故事によって「日立」と呼ばれるようになったという話はすでに書いた。ただ、本来のこの地域の地名は日立ではなく助川という。
国道6号はそのまま時代をさかのぼれば江戸時代には陸前浜街道。日立の市街地には、助川の宿場も置かれていた。さらにもっとさかのぼった古代にも助川郷が置かれて交通の拠点になっていた。そんな時代にここを行き交う旅人がどれだけいたかはわからないが、きっと助川を訪れた人はみな、太平洋を望む絶景に息を呑んだにちがいない。
明治に入って鉄道の時代が到来し、1897年に当時の日本鉄道によって現在の日立駅が開業している。ただし、そのときの名前も日立ではなく助川駅といった。いまでも国道6号沿いの町は日立市助川町といい、むしろ助川という名前の方がほんとうなのだ。
駅名が日立駅に変わったのは1939年のことだ。すでに日立鉱山の開発は進み、その修理工場にはじまった日立製作所は独立。海を望む線路沿いの一角に「海岸工場」と呼ばれる大きな工場を設け、さらには瀬戸内海沿いの笠戸などにも事業所を展開するまでになっていた。